NHKの音楽番組、SONGSに財津さんと一緒に小田さんが出演と聞きつけ、大急ぎで入浴を済ませてテレビ前にスタンバイする。
装着すれば、余計に髪がぐちゃぐちゃになってしまうカチューシャのようなヘッドフォン姿の財津さんも、からすとんび(それは何を意味するかは私も知らない)みたいな大きな白いマスク姿でインタビューに応える小田さんも、全く装わない「素」だったが、共に競うようにへんちくりんだった。 しかし、まるで恋人同士のように直筆の手紙を交換し、音楽で繋がる彼らの友情に感動した。とくに、もうすっかりベテランと言える筈の財津さんが、小田さんが提供した楽曲を「より自分らしく」を目指すのではなく、より小田さんの世界観を重視しようと努力して歌い込む姿や、「小田さんの歌い方は、真っ直ぐに、自分の胸の、奥底にある核たる部分に、問いかけるような歌い方だから・・・」と、じっと瞳を閉じながら、かみしめるように言葉にする姿には胸打たれた。同時に、財津さんが仕上げた曲を聞き終わったあとの、小田さんの瞳を伏せた独特の表情にも。ほとんど羨ましいばかりの瑞々しく素敵な関係。 そして、こうした話題から派生して、何故この話を綴りたくなったのかは分からないけれど、最近の出来事を書いておきたい。 先日、同じ学部で働くひとりの学者が急逝した。まだ若かった。平均的にはあと30年くらいは元気に生きてもよいくらいの年齢だった。私は、たった一度しか話す機会がなかった。偶然、今年になって同じ委員会で仕事をすることになったのだ。その一回目の打ち合わせは夏前だった。そのときはまだ彼自身、病気を知らないでいたそうだ。 彼はあのとき、私に「うそ?ほんとに」と言った。それは私が「今の高校生の女子は、制服がなくなって欲しいなんてきっと思っていませんよ。むしろ、制服は大好きだと思います」と、ちょっぴり若者ぶって言ったときの反応だった。「うそ?ほんとに」というのは私への返答というよりも、むしろ単なる驚きを口にした独り言のようでもあった。あと、いくらかの言葉も交わしたとは思うけれど、とくに印象に残っている内容ではない。 次の打ち合わせが夏休みが明けてからだった。しかし、彼は欠席であった。そのときに病気で入院していることを、私ははじめて知らされた。重篤な状態だと。 そして、その翌日、彼がもうこの世にいなくなってしまったという事実を知らされたのだ。私は言いようのない気持ちになった。悲しみよりも何よりも不思議な感覚があった。「うそ?ほんとに」と私は彼と同じようにひとり、呟いた。 そのあとの大きな会議で、全員で黙祷を捧げた。それは、とても長い黙祷だった。 だから、私はあの最初の会議で隣に座った彼の顔をまざまざを思い出すことが出来た。 同じ学科の同僚から、彼の学者としての立派な業績と、僅かな人となりをうかがわせる事実が聞かされた。 夏休みにはもう遺書をしたためていたこと。 9月の半ばに事務手続きのために大学に来たこと。 そして、それが最後の出勤であったこと。 多分、私がまだ一度も話したことがない男性教員のひとりが、眼鏡を外し、そっと涙を拭う姿を見た。 こんな風にして、人はすっと消えてゆくように居なくなるものなのか。 彼の遺書は、とても正しい、きちんとした日本語で綴られていただろうと想像する。 小田さんが財津さんに提供した曲のタイトルは「手紙にかえて」 |
先週末に母来る。
「依存なきところに自立なし」というのは父の昔からのお気に入りの口癖だ。母が先日、我が家にやって来る直前に、父が「おい、○○まで仕事で行くんだけど、ちゃんと着くかちょっと不安だからさぁ、ママ一緒について来てよ」と言ったらしい。「ついて行っても全然楽しくないじゃないの、私!(私の心の声:え、そういう理由?)」と憤慨していた。 母は父にインターネットで路線検索する方法を教え(PCで複雑な統計解析が出来るのだから、駅名入力が出来ない訳がない。全くする気がないだけ)、勝手に一人で行くように息子を(いや父を)突き放した。そう言いながら、娘の家にやって来た夜になると「お父さん、ちゃんと迷わず行けたの?」と電話しているのだ。これまで甘やかして駄目な息子(いや父)にしたのは半分は母の責任だ。父は「まぁ、別になんてことはなかったな」と偉そうに答えていたらしい。一緒に来てくれと言ったその口で。 我が家に母に来て貰うと、食生活が改善されるなどのほか、潜在的にはよき点がもう一つある。私自身の「休日・廃人化の防止」だ。この頃の私は、休日は日がな一日、ネコのように眠り続けてしまい、日曜夕刻のサザエさんを観てしまうと、不毛な時間を過ごしたことに心底絶望するのだ。 身内と言えども、廃人化したままの自分では何故か非常に居心地が悪い。そこでトイレやキッチンの掃除からはじめて、散らかった書類は積んでせめて分類。着て脱いだものは畳んで直す。はじめると徐々に気分が良くなっていくことは知っている。知っているけれど誰も来なければ絶対にやらない。来客は私の社会性をよみがえらせ、廃人化を予防するという訳だ。 家事というのは、住人の裁量次第で大きくもなり小さくもなる。私は、もちろん家は綺麗な好きだ。だから、普段も一見、片づいているように見せることは出来るが、さほどこまめではない。数ヶ月に一度に奮起してあちこちを磨いたり、引き出しや書類入れをひっくり返しすことはあるが、身長より高いクローゼットの上に積もっているだろうホコリは気にしたことがない。だから、母が帰宅したあと1週間もしてから「あらまぁ!こんな所が綺麗なっているわ」と気づいたりする。そして、母もまた「私も自分のウチ帰ったら、このくらい綺麗にしなくちゃ!」と言って、なかなか実行出来ないようなのだ。 ちなみに、私の家ではメリケン粉と片栗粉とケチャップが切れている。割と頻繁に使うから無くなるんだけれど「なんで(そんなものさえ)ないの?」と母に呆れて言われるまで、無くなってしまったことを忘れるくらいの期間は気づかなかったということだ。 依存娘続行中。 |
私の講義の一つを、車いすを使って日常生活を送る学生が受講している。私は彼のチューター役でもある。と言っても別に何もたいしたことはしていない。日常的に、学内にいる彼の存在を気に留めるようにしているくらいだ。それでも、それまではさして気に留めなかった学内の段差や、低床バスの便数の少なさなどが気になるようになった私は、近々要望書のようなものを書くだろう。
先週は、その車いすの彼とは別に、ある別の障害を持っている学生を迎え入れた。 過去、留学先で大きな事故に遭い、長きに渡る入院と、懸命なリハビリ生活を続けたあとに復学希望を出している男子学生だった。 脳に少しの障害が残ってしまったものの、強い復学希望を尊重し、学部全体でのサポート体制を敷いた。 実際会ってみると、彼はとても人なつこい印象の人物で 「先生、帽子がよく似合いますね」と、挨拶は余裕に満ちていた。また学校に戻って来られたことに心底喜びを感じている様子に見えた。 彼はその日一日で、4コマもの講義に出席を果たしたらしい。 今はなんとしても復学を果たすことが彼の生き甲斐で、 将来はふるさとで同じ障害を持つひとの力になりたいそうだ。 復学シュミレーション期間の最後となる私の講義中、彼は積極的に挙手し、真っ直ぐにこちらを見つめて発言をした。 ボランティア学生と専門職の人が万全の体制で3名付いていたが 何の問題もなく講義を終えられた。 私はいつも以上に努めてきちんと、混乱のないようゆっくりめに話すようにした。そうした心がけを実行することは、思うに、ほかの学生にとっても好ましいことだったに違いない。 時折合わせる視線に彼との疎通を感じていたが、途中には「何か聞き取りにくいことは?」、最後には「わかりにくいことはなかったですか?」と聞いた。彼は 「わかりやすいです。とても楽しかったです」と言ってにっこり笑った。 授業中、彼は「僕は、留学先でお世話になった人たちに もう一度お礼を言いに行きたい」と話していた。命に関わるような大けがを負い大変な想いをしても、 前向きで明るく、知的好奇心に溢れている。生きる意欲に満ちた非常に魅力的な青年だった。 私だけではなく、彼の強さとしなやかさに、他学生の多くも少なからぬ感銘を受けたことと思う。 日頃、学生諸君の様子にはため息をつくことも少なくないが、 率先してサポートを引き受け、そのことに喜びを感じている学生らの存在と共に、温かさや多様性が確保されたムードのなかで講義が出来たことが嬉しかった。こうした機会をきっかけに、サポートに関わった教員、学生たちが、皆ともにお互いに笑顔で「ありがとう、ありがとうね!」と労いあっている様子をあちらこちらで目にした。 人はただ、日々の生活を放棄せず何とか生きているだけでも十分じゃないかと思うことがある。でも、得難い多くを求めてしまう。そこが人間の苦しさと人とおしさでもある。それぞれが、自分以外の誰かからの、強烈な承認や愛、自分の存在価値を求めながら人生という旅をしている。 |


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