風と君を待つだけ

~my ordinary days vol.3~




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今日まで、そして明日から。 :: 2009/03/30(Mon)

 一段落つけた。
 「ついた」と言うよりも、締め切りに間に合わせるべく仕方なく「ひとまずはお終い」にしたのだ。 あそこはこうしたらよかったとか、ああしたらよかったとか、一段落つけると必ず出てきてしまう。でも、本当を言うと、もう当面は離れていたいと思う。でも、やっぱりそれじゃ駄目なのだ。

 小田さんが少し以前、グループ時代の過去の曲を「拙い部分をずっと後悔しているより直せるなら直したい」と言って沢山の曲を録り直した。結果に対しての賛否はあったけれど、それらをまとめてリリースしたアルバムは大勢の人たちに受け容れられた。それこそプロの姿勢だから見習いたいとか、そんな風に浅はかに私は言えない。その執着の仕方こそ、やはり多大な才能なのだと改めて思ったりする。考えて考えて考え続けている。彼は、辛いときがあっても、ここまで続けてきた理由を、事あるごとに「だって、音楽が好きで好きで仕方なかったんだ」と答えている。その言葉には感動というより、ちょっと人として打ちのめされるような感触がある。時々だけれど。
 私は自分の仕事が好きで好きで溜まらないのだろうか。きっぱりとは答えられない。少なくとも、どうしても無関心ではいられない。やっぱり好きなんだろうか。僅かなことでも、何かが明確になるまで、それを手触りのある感触にしていきたい。だから持ち得る方法で探る。そして、書く。そのときの高揚を思いだしている。
 その感覚が鮮明なうちに、「ちょっと休憩して」なんて長々とインターバルを置かずに、次に行こう。そう思った。

ギターもってお出かけ 眼科。「昨日からものもらいが出来ている右目だけ、ひどく視界がぼやけるんです」と申し出るも、左は2.0、見えなくて困っている右目の視力は1.0程度と言う。でも、自覚症状としてはかなりぼやけているんですが・・・と言う言葉を制して「そんな程度で眼鏡かけたりコンタクトする人なんていませんから」と医者にたしなめられる。ものもらいが完治すれば回復の見込みがあるとのこと。
 眼科のあと、お正月のバーゲン以来の派手な散財・・・ちょっと調子乗りすぎたように思うため、一層、殊勝に明日と言わずに今日からの健全で、謙虚で、勤勉な日々を妄想する。

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あと少し。 :: 2009/03/29(Sun)

 この数日、まっとうな人間生活を完全に放棄しての「論文合宿」を実家で敢行。夜を徹して仕事をしていると言うと随分励んでいるようだけれど、単に生活時間がズレているに過ぎない。「めーちゃん、お昼過ぎたわよぉー?」との母の声に起こされて「むむむ。今何時?」「お昼の1時」「うそ!?」という日々を過ごした。
 相当切羽詰まって来ているので思考の分断が出来ない。夢のなかでも、考えている。しかし、何とか明日じゅうに投函すれば、一段落だ。

 今朝見た夢。
 私は戦時中の報道カメラマンだ。性別はひょっとすると夢のなかでは男性なのかもしれない。日本人捕虜や一般人が大勢、敵に捕らわれているなかを、武装する道具一つ持たずカメラだけ持って出向く指令を受ける。
 そこには小さな子どもたちもいる。彼らは、カメラに向かって無邪気な表情を見せる。だから、私はシャッタを切る。大人たちは皆、寂れた顔をして横たわっていたりする。
 そこに敵と見られる軍服を着た男がやってきて「お前は何者なのだ」と私に問う。私は恐怖で上手く応えられない。そこに、私をかばうようにある別の軍人が「よしなさい。この人は、写真を撮っている人だ。これは大事な仕事なのだ」と言う。しかし、猜疑心に満ちた男は私に敵意の視線を向けてナイフを抜く。一瞬にして私をかばった男が身を乗り出して、私の身代わりとなって刺されてしまう。そのあと、私はそのナイフ男の前に何故か同じようにナイフを持って立たされている。
 共に殺されるか生き残るか。身体がガツンとぶつかって・・・あぁ、私はこれで死ぬのかな。

 というところで目が覚めた。
 そういう類の夢ばかり見ている。「ナイフ」は決まって追いつめられ感の象徴だ。そろそろ自分を解放したい。ものもらいも完治せず、明らかに物もぼやけて見える。明日は郵便局のあと眼科に行こう。

研究室で試し撮り 次は、母が最も最近見た忘れがたいと言う夢。
 彼女は比較的小さな犬を飼っている。「そろそろあの子を散歩に連れていかなくちゃ」と思う。散歩に連れて行かれる犬と言えば通常、尻尾をちぎれんばかりに振って、身もだえして喜ぶはずだ。しかし、母が飼っている犬は、散歩中でさえ、実に「だらだら」して、まったく「やる気に欠けている」らしい。
 
 「その犬が、妙にアンタに似てたのよ」
 あん?なんですと?!
 
卒業式に備えて、研究室で試し撮り。 

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青年よ、大志を抱け :: 2009/03/25(Wed)

 卒業式。

 この不安定で、不確実で、どんな風に希望を持っていいのか分からない社会のなかで、
 それでも若者たちよ、大志を抱いて、この学舎を巣立ってゆかれよ。

 ご卒業おめでとう!

 

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小田さんが文部科学大臣賞を受賞する。 :: 2009/03/22(Sun)

 小田さんが「文部科学大臣賞」を受賞したそうだ。
 http://www.bunka.go.jp/geijutsu_bunka/souzoukatsudou/sensho/20_geijutsu_sensho.html
  
 ちなみに私ども研究者と言えば、毎年、研究補助金をつけてくださいな、と文部科学省にお願いの申請書を書く。で、特によろしければ採用頂けるというご縁である。
 「敬愛する小田さんに近づいていくような人生を送ろう」などと思いながら悠長に過ごしているうちに、小田さんの活躍があまりにめざましく広範囲になっていくため、まるで彼が私たちが生きる分野近辺に近づいて来たような錯覚にさえ陥る。先日の元春氏との大学での公開講座などもその一つだ。

 一方、国から賞を受賞したかと思えば、こんな企業のCMの音楽も手がけている。
http://www.maxfactor.jp/200903/special03/index.html

 綾瀬はるかちゃんの癒し系笑顔に「何度も何度も君に恋をして~♪」である。かつて売れないオフコース時代はシャンプーのCMソングなども歌っていたようだけれど、それらはいかにもバックに流れる耳障りのよいコーラスでしかなかった。でも、昨今CMなどに起用される小田さんの音楽は、当時とは違って雄弁だ。明治安田生命のあの有名なCMのように、それがなければ絶対に成立しないほどに、物語の主要なテーマを担い、私たちの感情を揺らす。この出来上がったCM曲を担当者がはじめて聞いたとき、感動のあまり思わず涙ぐんだとの報告も耳にした。もしかすると、ずっとずっと小田さんと一緒に仕事することを夢見ていたのではと思う。私たち世代か、もう少し上の人々がやっと社会のなかで力をつけて、青春の時代に沢山の力をくれた小田さんにアクセス出来るようになってきたとも考えられるエピソードだ。

 この明るいニュースに励みを受け、目の前の仕事に全力を尽くして新年度を迎えたい。

 眼科に行くの巻

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ジーンズでいいんです。 :: 2009/03/17(Tue)

 先日、ちょっと型破りだった中学の担任だった理科の先生の話を書いたら、記事を読んでくれたらしい当時の同級生から「そういえばさ、理科の実験が終わったあと、残った塩で歯を磨いてたぞ!」という目撃情報が、遙か年月を越えて伝えられた。こんなエピソードは幾つあってもいい。

 そう思っているうちに、もう一つ思い出した。彼は学生時代にフットボールか何かをしていたそうで、身長は普通だったけれど体つきは確かにがっしりとしていた。汗まみれのユニフォームがいかにも似合いそうだった。それでも彼は、毎日そこそこに先生らしい服装をしようと配慮している気配が感じらた。それはそれで初々しかったけれど、ちょっぴり窮屈そうにも見えた。
 そう言えば、先日の入試業務のあと、『ジーンズにセーターを着ている試験監督がいた』ことがクレームになったらしい。私もきっと多少、価値観は逸脱系なのだろう。試験監督が必ず黒っぽいスーツを着ていなきゃ駄目だなんてステレオタイプはいったい何処からインプットされるんだろうと内心驚いたことがあったっけ。
 それはともかく、彼は「先生って、やっぱこんな感じだよな?」と言いたげなコットン・パンツにポロシャツのような格好が多かったように思う。それにしても不思議だ。当時、ジャージ姿の男性教師は一杯いたけれど、ジーンズ姿の人はそう言えば見たことはない。ジーンズが駄目で、ジャージで廊下をウロウロがOKだったのは何故だろう。それだけではない。スーツを小粋に着こなす大人も中学ではほとんど見たことがなかった。教師たる人間は地味で木訥であることが美徳だったのだろうか。それは今なおそうなのか。「生まれ持った外見や磨いた内面の資質を活かし、お洒落を楽しみ小綺麗・小粋に好きな服を着こなす、自分らしさを謳歌するという自由を持つことが君達子どもとは違う大人の証なのだ~!」などと言えばきっと大問題になるだろう。
 
 そう、話題はコットンパンツであった。彼は以前にも綴ったように常に力んで、そして大いに空回りし、子どものように呻いたり嘆いたりするとても純粋な人だった。ある日の授業中、何かを説明しようとして、ちょっと踏ん張った拍子に、ビリリっと音がして彼のお尻が割けた。いや、正しくはコットンパンツの生地が裂けて、縞々模様のパンツが丸見えになったのだ。これにはクラス中が皆、ぎゃははと大笑いである。彼はしばらく困ったような照れくさそうな顔をして手でお尻を押さえていたが、皆が笑って笑って授業にならない。とうとう着替えて登場したのだけれど、そのときもやっぱりジャージだった。ジャージにシャツは相当ちぐはぐだった。でも、あの頃、先生が予備に履くべきはジャージだったのだろう。あのとき、別にジーンズだってよかったのになと思う。無理をして、一人前の先生みたいに振る舞わなくても、ついこの間までの青春まっただ中だった等身大の彼のままで現れたら、子ども達には近しい気持ちが沸いたかもしれない。
 
 こんな風に何年も語り継がれるような印象を残す先生って、今でもあちらこちらに居るのだと思う。
 時々耳にするのは、「学校の先生なんか社会のことを何にも知らない。あんたらみたいなのはだからアカンのじゃ」といった言葉だ。どうやらこれは大学の研究者に向けても言われるものらしい。先日も友人の女性研究者がある中高年の公務員男性に似たような言葉を言われたそうだ。彼女は銀行員を経験したあと、労働領域の様々な問題に気づいて世のため、人のために研究職に就いた超努力家な人物だ。そんな風に自分は脇に置いて、誰かの問題をあげつらう人は大勢いる。「だったら、あなたが替わって立派に勤めることができると言うのですか?」

ぐにゃめぐ。 教育が「万能」だなんて誰も思っていない。むしろ、思っているほうが危険だと思う。だけれども、その可能性は決して小さくはないと思う。人が人を育てるときには間違いも含む。でも、それが全部削がれたものが本当に一番素敵なことなんだろうか。
 それは、嘘や欺瞞や絶望などが大きく渦巻くなかでも、それでも生きているってことは、それだけで何をさしおいても素敵なことなんだ、人生が捨てたものじゃないと言えるのと同じだ。そう強く信じられるように、若い人たちには「え?なに??あのひとは?」とびっくりするような人間味溢れる、あるいは奇人変人、奇天烈な様々な人々にも大勢出逢って、生きてほしい。

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やさしい日本語で書こう。 :: 2009/03/11(Wed)

 先日、非常勤先に赴くにあたって、旅費と宿泊費に関する書類を事前に受け取った。そこには、こう記してあった。
 『航空機利用の場合は、航空機チケットの「領収書」又は「請求書」及び「往復の航空機の半券」が必要(全てコピーでも可)です。』

 さて、あなたが飛行機を利用した場合、この文章によって提出が求められている物が何か、即座に判断できるだろうか。今ならば、私は紛らわしいので問い合わせをすればよかったと後悔する。
 
 経験的に前任校では、最初の数年はどこかに出張して飛行機を使うと「半券」の提出が求められていた。が、そのうち領収書か半券かいずれかになり、最終的には旅費に関する業務が”アウトソーシング”されたのを機に、何処に行くにせよ、いかなる交通手段を取ろうと、行った場所によって決まった交通費しか出して貰えないことになった。現在の大学でも同類のシステムと思われる。そうした経験値が反対にこの紛らわしい文面を歪んで解釈させ、求められているのは「領収書」か「請求書」か「半券」のいずれかだな、と判断してしまったのだ。
 1ヶ月以上経った今頃、「半券はまだですか」との事務からの問い合わせが来てしまい、え?そんなの捨てちゃったよ。だって領収書を出したも~ん・・・という問題が生じるのであった。幸い救済措置があるようでマイレージの経歴を提出すれば代替してくれるようではあるが。

日向ぼっこ。 だいたい「及び」って言葉はこうした公文書みたいなものの類では頻繁に見受けられるけれど、普段は使わない。辞書を引いて最も簡単な言葉で言い換えたら「そして」、あるいは「加えて」である。
 それにしても ”「領収書」又は「請求書」及び「往復の航空機の半券」”の表現では、厳密には私が勝手に勘違いした以外にも、必要なのは「領収書」or「請求書と半券」との解釈も可能だ。

 最も間違いにくい書き方を提案したい。
 「飛行機を使った場合は、領収書か請求書に加えて、往復の半券が必要ですよ」
 
 人の論文を読んでいるとき、「この人、何だかわざと人が理解しにくいように難解な書き方をしているんじゃないだろうか?」と腹立たしく思う時がある。むしろ、誰もが分かるような日本語しか使っていないのに、その内容は十分に高尚だと思える文章に出会うと非常に感激する。自身を省みたい。

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週末は寝て過ごさない。 :: 2009/03/08(Sun)

 日曜の夜、久しぶりに女性4人での会食。私としては、この街に越して来てからのお友達なので、お呼ばれするのはとても嬉しい。
 この土日は、少し撮影。朝は少なくとも午前中に起きて掃除をしたので気分がよい。明日までのゴミ出しもこっそり今夜のうちに済ませてすっきり。 

 たった2つしか仕事がなければ、やり遂げられるのはせいぜい一つ半くらい。3つ以上あれば、最低でも2つの途中までは行き着けるだろう・・・という、何処かで呼んだ理屈がなるほどと思え、こちらの日記にも何度か言い聞かせるように綴ってきた。「締め切りを必ず設けて、誰かに約束する」これも説得力がある。
 ただ、その複数抱えている何かが全て「仕事」なのと、そのうちの一つでも「お楽しみ」が混ざるときには効力がちょっと違うと思う。あくまでも自分の指標だけれど、「こんな忙しい時期に敢えて遊ぶんだから、真面目に遊ばなくちゃ」とか、その罪悪感から「それまでに最低、ここまでの仕事を終えておかなくちゃ」といった具合に、遊びの予定を投入しておくほうが仕事のモチベーションは上がる。相当控えめに書くとしても『やや上がる傾向にはある』。

木立のなかで。もうコートは要らない。 そろそろ春物ファッションも気にならない訳ではないけれど、まだあまり気分が向かない。向けられる余裕がない。お正月のバーゲン以来、新しい洋服などは一切見てもいないし、買ってもいない。今は何も余分なことは出来ない・・・という仕事を抱えている時には大抵そんな風になる。何か楽しいことを抑制する傾向にあるけれど、逃避的にベッドから出たくなくなる。
 
 「ノルマは終えてもいないのに」、自分に不相応のご褒美を与えてみてはどうだろう。すべてやり遂げたことにして。その罪悪感を糧にするのだ。
 と言っても、あまりカゲキには出られないので、今週半ばまでにせめて美容院でトリートメントくらいにしに行く時間を作ろうと思う。そのためには、あれは、あそこまで終わらせる!

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how to work :: 2009/03/05(Thu)

 『与えられた目の前のどんな仕事も、自分なりに一生懸命にこなしているうちに、気がついたら、色々な大きなプロジェクトを任せられるようになっていました。』
 働く女性向けビジネス雑誌などでよく見かける台詞なのだ。
 かつての職場の同僚である大先輩も「45歳までは、はい、私でもよろければと言って何でも引き受けて頑張りなさい」との助言。

じっと見る。 インド像で関西弁を喋るカミサマが主人公で話題となった本を、ついコンビニで手に取った。それによれば、「日常の事柄に単純に”反応”して生きるだけでは目標は達成できない」といった意味の事柄が綴られている。それもまた、ごもっともである。生きるということは選択の連続である。ともかくその時々の自分の「プライオリティ」を決めたら、それを遂行すべく自身と約束し、それを果たしていくことが生きることにほかならない・・・と書くと、正しいようでどこか偏っている気がする。誰も、そこに他者が介入しないことが前提で、選択など成しようがない。他人は邪魔をすれば、ときに協力もする。
 やりたいことだけを、思うようにやって生きていける人など居るだろうか。やりたくないことも(最初は多少の欺瞞があったとして)「やりたい」風に思えてくるようになるためには、どうすればいいか。一つだけ近頃思うに、とにかく一度だけでも経験しておけば次からのストレスは大きく和らぐもの。はじめてのことは、大抵周囲の人に倣う。チームで動くことは滅多にないけれど、嫌いじゃない。隣の人の役に立ちそうなことからはじめればいい。あまり自分にプレッシャーをかけすぎるのもよくない。にこにこ、している。それだけでもいいのかもしれない。
 
 きのう一日だけ、実家で缶詰仕事をすることに決めたところ、父と全く同じように完全なる夜行性動物になってしまった。

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なんとお呼びしましょうか。 :: 2009/03/01(Sun)

 あなたは親密で重要な他者をなんと呼びますか。
 では、人前ではどうでしょう。

 たとえば「配偶者をどう呼ぶか」。
 どう呼ぶかと言っても、互いがどう呼び合うかはさておき、第三者に対して、そこには居合わせていないほうの配偶者をどう言い表しているかに関心がある。第三者は、その人の配偶者をどう呼ぶのが礼儀として適性かという点も含めて。
 
 私の友人の一人は夫を「ダンナ」と呼んでいる。割と多い呼び方だと思う。勝手な印象としては、仕事を持ち、夫とは当然の対等さを求める女性に多い気がする。少し年長の方々で「主人が・・・」と言う表現もよく聞く。あるときは、私より一回りほど離れた女性が、夫のことを照れもなく「うちのダーリンが」と言うのを聞いたこともある。「彼」と呼ぶ人もいれば、親しい間柄ならば、名前で「○○君」というのも聞く。「夫」という言い方が最も中庸な気がするけれど、どのくらいの人がそう呼んでいるだろう。
 男性が女性の「旦那さん」でも「ご主人」でもない今、それらは時代錯誤的な呼び方でありながらも習慣的に使われているに過ぎない。そういった事柄に敏感な女性に対しては、勝手にこちらから「あなたの夫=あなたの”ご主人”」と決めつけるのもどうかと思うが、「夫は元気ですか」と言うのも不躾な気がするし、目下のところ慣例的に「ご主人」とか「だんな様」とお呼びするのが無難だと思ってしまう。本人たちに「こう呼んでちょうだい」との申請があれば別だけれど。
 
 中学生の頃、夫婦で学校の先生をしているという男性教師のほうが授業中に「昨日、うちの”奥さん”が風邪をひいてしまって・・・」と言ったのを鮮明に覚えている。「奥さん」という言い方が、あのひげ面で、不良少年たちを大声で叱り飛ばすものなら飛んで逃げていくほどの強面な彼には、ちょっと可愛らし過ぎる言い方に感じられた。呼び方はどもあれ、彼は「奥さん」を大切にしているというニュアンスが伝わった。もっとも彼の妻は日頃、奥様の名のとおり「奥まったところに」いらっしゃっている訳ではなく、彼と同等か、ひょっとするとそれ以上に外で働いていたかもしれないのだが。
 もう一人、以前の職場の同僚に、人前で妻を呼ぶとき「私の配偶者」と言う人物がいた。いかにも正しい表現だろう。だけれど、正しさが違和感を与えることは往々にしてある。

夕暮れに。 ほかに聞くのは「うちのが・・・」である。うちの何だろう?どうにも照れくさいのだろうか。あとは「カミさん」。これもよく聞く。「私の妻」とはあまり聞かないのが不思議だ。年長で気取った人はワイフなどと言う。私の父がまさにそれだ。うちでは未だに「ママ」と呼んでいる癖に。
 こんな風に、公共の場や第三者の前で配偶者をどう呼ぶかが、その人の結婚観や家族観、親密さの中身を、ちょっぴりかいま見るきっかけであるような気がして、なかなか興味深い。では、恋人をプライベートと公共でどう呼び分けるか。話はいくらでも展開するが、今日はこのあたりにて。

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