風と君を待つだけ

~my ordinary days vol.3~




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華麗なる睡眠不足。 :: 2010/04/27(Tue)

 完全なるオーバーワーク。華麗なるオーバーワーク。可憐なるオーバーワーク。ふふふ♪と言葉遊びをしながらバスに乗って遅くに帰宅する。
 夜は道が空いているためバス運転手は飛ばし放題である。よその街から遊びに来た友人曰く「この街のバスって、トトロに出て来るネコバスみたい。生きてるみたいだわ」と。決して親切ではないのだ。停留所に止まる瞬間もいきなりだからガクガクと揺れ、一瞬止まったかと思えば「そら、乗ったか」と言わないばかりに、ドアが閉まると同時にもう走り出す。
 しかし、乗客はと言えば、降りるときは頭上に天使が降りてくるらしい。どのくらい乱暴な運転をされようとも、関西イントネーションの「ありがとー」を響かせながら朗らかに次々とステップを降りてゆく。ひとり、のこらず。思うに、あまりにグラグラと揺られると脳みそがシェイクし、ほどよくハイになるのではないだろうか。

 その昔、通学で通っていた、とある駅では、まだ駅員たちが立って切符を切っていた。ちゃき、ちゃき、ちゃき、ちゃきとハサミの音を規則正しく立てながら「おはようございまっす」と「ありがとうございまっす」の両方の言葉を乗客に交互にかけていた。寸分の乱れもないそれを私は神業のように見ていたものだ。
 大人たちには、何も言わずに通り過ぎてゆく人もいたが、学生の多くは定期を見せながら「ありがとー!」と走り抜ける天使だった。
 
 「ありがとー」の代わりに、一度だけ駅員に「ごちそうさまー!」と言ってしまったのは、ほかでもない私である。その後、気の毒なことに、あれほどリズムよく刻まれていたハサミが”かっかか??かかかかっ???”と鳴った。しかし、この類の話は事欠かない。
 インターフォンなどない時代に、玄関に訪問して来たひとが「ごめんください」とドアごしに言ったのを聞き、未だに謎ではあるが「はい、○○です」と我が名字を名乗ってしまったことなど、尾ひれをつけて語れる。
 学生時代にチケフレ(チケットフレンド)の男声合唱団のステージを見に行った時、おじいちゃんの大御所指揮者が第四楽章まである曲なのに、第三楽章が終わったら深々とお辞儀をしてステージを去ろうとしたときに「私のような人だ」と心底思った。先日、履修登録しなければ留年もしかねない必修科目なのに、まんまと履修し忘れた学生のかわりに教務に嘆願書を書いて救済してやったのも、その程度のミスは、この人生で何百を超えると思ったからである。

 今日は何について書くつもりだったのか、まるで思い出せない。

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腕立て、腹筋、背筋! :: 2010/04/21(Wed)

 フィールド調査に男子学生3名を連れて行く。調査が終わると、朝から働きづめで無性にお腹が空いてしまった。ゆったりと夕飯を食べに繰り出すほどの元気は私にはなく、近くのハンバーガーショップでそれぞれに軽食を摂る。
 「ぼくはウチ帰って夕ご飯あるから・・・」と、やせの大食い君がちびちびと飲み物だけ飲んでいるので、私のポテトを半分、分けてあげた。大食漢君も、物足りなさそうなので残りの半分をあげる。
 
 バーガーショップでの会話:その1 
 「ところで君たち、腕立てふせって、何回くらいできるの?」
 「・・・・ん?あーーー。3回くらいかな」
 「ええっ!!それだけしか、出来ないの?じゃ、懸垂なんて出来ないでしょう。
  高校までのスポーツテストのときなかった、懸垂って?」
 「ありませんでしたよ。僕らの時代は・・・(けっ!)」

 その2
 「僕はぁ、現代的なスポーツが苦手っすね。」
 「たとえば?」
 「ボーリングとか・・・」
 「あぁ、あれね!レーンに行く前に球を床に落っことす、みたいなでしょ?」
 「いえ、えっと。投げようとしたら、いつも足にぶっつけるとか、です」
 「・・・・」
 「でも!僕、高校んときは50m走で6秒9出したことあります!」
 
 「私も、あるよ。」

 その3
 「諸君!今夜から腕立てと腹筋と背筋ノルマにしよ!ほれ、みな、目標値を宣言して」
 「んじゃ、ぼくは腕立てを・・・10回くらいかな?」
 
 「おまえ、そんなんやらんも同然やろー」
 「だって、出来へんのやからしゃーないやろー」 

フラミンゴめぐ 食べている間じゅうほとんど無為な会話に終始しているが、最後に「先生だってちゃんとやってくださいよ。体力ないってゆうてるやないですか。筋力、筋力!」などと言われたので現実的なメニューを考えた。
 今週のメニューはこれ。今日のノルマはもうこなした。
  ①膝付き腕立てふせ15回(ゆっくり)
  ②腹筋(椅子に90度で足のせ・1秒止め)10回
  ③背筋20回
 
 青年たち。まずは、その青い青い心に、しなやかな筋肉をつけてください。  

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路上で歌う若者たち。 :: 2010/04/14(Wed)

 路上で歌う高校生の女の子と握手をした。自分から求めて。

 いつも駅前でギターを抱えて歌っている少年少女の姿を目の端で眩しく見つめていたけれど、立ち止まることはなかった。何だか過ぎ去りし青春と対峙して感傷的になりそうでもあり、青くて眩しすぎて直視できないような気分でもあり。
 真冬の空の下でも歌声は毎週のように響き、人気者の前には数十名の人の群れが出来ていた。明らかにギター・ブックをコピーしている男の子たちの前にさえ、「私たちだけはあなたのファンよ!」と言わないばかりに仲良く2人、3人の少女たちが、必ず短いスカートの制服から出した素足を寒そうに両腕で抱えながら、三角座りをしていとおしそうに身体を揺らしていた。
 似つかわしくないと言っては失礼だけれど、時には、おじいさんのような男性が、少し離れたところから、とてつもなく優しい眼差しを若者たちに送って手拍子をしている時もあって、それは何故かぎゅーっと胸をつかむ風景でもあった。
 
 一度も立ち止まったことがない自分が、何故、アコギをかき鳴らす高校生シンガーに「一曲、歌ってちょうだい」とお願いしたかと言えば、彼女がその日連れだっていた知人のお嬢さんの同級生だったから、である。知人の娘さんは何度か会ったことがあり、ひらひらと私に遠くから手を振ってくれた。
 その親密なノリが連鎖して、「ね、一曲、何か歌ってくれない?」と願い出ると、彼女は「じゃ、これを」と少しだけはにかんで歌い始めた。彼女は想像以上に歌が上手で少しびっくりした。実は全く期待していなかったのである。僅か高校1年生にしてオリジナルソングだった。中音域の乾いた声と、高音でよく響くファルセットは心地よい歌声だった。ノートにものすごく小さな薄い文字で歌詞を綴っていて、その上にコードが記されていた。

 まんまるい文字は若い子そのものだったが、その歌詞は、しかし、全く幼稚ではなかった。「愛する人」に向けた曲だった。私は風で吹き飛ばされそうになる楽譜立てに載せられたノートを、そっと押さえてあげながら二番を聴いた。

 「もしかするとプロのシンガーになりたいの?」「はいっ」と間髪入れずにためらいなく彼女が答えたとき、それが叶うとか叶わないとか関係なくとっても清々しく響いた。
 「とても上手だったよ。いつか大物になったら、うちの大学の学園祭に来て歌ってね!」と言うと嬉しそうに照れていた。そうだ、ついこの前に新しく名刺が出来たの。はいっ。と渡しながら、ひょっとすると近い未来に音楽界にデビューしているかもしれない、していないかもしれない、それでも夢が一杯詰まった彼女に、手をさしのべて握手をして「もらった」。

 ギターを一生懸命にかき鳴らしたあとのひんやりと冷たい手だった。

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Way :: 2010/04/11(Sun)

僕らの目の前に無限に広がる たくさんの道
       
ゆくべき その道 
選びとるべき その道
僕だけの その道

誇り高き道をゆく 志高き者たち

脇道で 何処までも さまよい続ける者たち
        
そして そのどれでもなく
霧がかって よく見えない だだっ広い道の途中で 
途方に暮れる僕ら
        
君は どの道に踏み出すのか  
その魂は 知っているはずだ



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花束贈呈について。 :: 2010/04/08(Thu)

 3月の終わりに退職される方々を囲んで大々的な送別会が行われた。私は春の新人さんの歓迎会には出ていたが、昨年までは、まだご退職の方々とは殆ど面識がなかった事もあり、送別会には初めての出席だった。

 今年はお世話になった方もご退職をされることを知って、「行っておこうか」という気持ちになる。何より豪華な食事が出るのだ。親交会の会費は食べても食べなくても支払っているのだ。こんな時くらい美味しいものを食べておかなくちゃ損よね、という下心もありあり。

  
 親しい同世代の女性が幹事のひとりで、「早めに行くけど乗ってく?」と言ってくれるので、いそいそくっついて行。せめてものお礼に受付を手伝うことにした。
 会がはじまり、幹事の女性は司会者の席につく。隣で退職者たちに学部長が謝辞を述べたあと、お祝いを包んだものを手渡し、そのあと花束も渡すので、「ついてはめぐさん、あそこの台に置いてあるお花を学部長に渡してあげてくれない?」と幹事さんに言われたので、気持ちよく「いいですよ」と請け負った。
 
 ところが実際に会がはじまり、よいタイミングでお花を学部長に持っていこうとすると、彼が「あなたから渡してあげてよ。僕があげるよりいいからね」と言う。そういった予定はなかったけれど、あっちとこっちで押し問答するのは壇上に上がっている方に失礼と思い、それもまた快く引き受けた。そのあと、5名ほどの方々への花束贈呈を担当する。
 同じテーブルに座ったもう一人の男性の幹事からは「この幹事って五十音順に回ってくるんだよ。あなたはもう半分やっちゃったよね。」と言って笑っていた。

 後日、やや年長の同僚女性たちに「こうゆうことがあって、ですね・・・」と他愛なく話していると、「女だからって花渡す係にささせられたら駄目よ!」と言われた。ふむ。そういう感性は分からないでもない。社会的な性別役割にセンシティブである、というやつだ。以前、我が大学の新しい学部の立ち上げセレモニーの時、女子学生だけをまるでコンパニオンのように使って、来客の相手をさせたことが、問題になった。
 重要な地位には男が、補完的な地位には無意識に女が配置される社会に敏感であれ、というやつ。「花束贈呈」を女性が担うと、ジェンダーバイアスが働いているように感じる人がいる。学生諸君たちはどう思うか聞いてみよう。

 ここで、私が何故、花束を渡すという行為を断らなかったか。書いておこうと思う。
 1.「自分は向いている」と思ったから。
 「女だから向いている」ではない。学生時代からステージでお世話になった恩師に花束を渡すという行為をスマートにこなすための練習をした経験がある。だから慣れているし、きっと上手に出来るだろう。むしろ「いいよ、任せて!」という気持ちだった。
 
 2.花束を渡す、という行為の瞬間が好きだったから。
 ただの「形式」と思えばそれまでだけれど、一度、ほとんど話したことのない方の目を初めて真っ正面から見て、「あまりお話をしたことがありませんが、30年もの間、本当にお疲れ様でした。どうもありがとうございました」と言葉にしてお花を渡したときに、自分と相手の方との間に一瞬だけれど温かい感情が通った気持ちになったから。
 
 3.花束を渡す行為を「主」に対する「フォロー」的仕事と感じていないから。
 裏方で学部長に花を渡す役より、表舞台で自分の手で、自分のセンスで、自分の裁量で、自分の言葉を、伝えて渡せるほうが何倍も光栄だから。

 もっとも「ほら、女なんだから花を渡せよ」と誰かに言われたら、その人を蔑むだろうが幸いにしてそうした人物は見あたらなかった。 
 主体的に選び取ったポジションが、外から観たときにバイアスがかって見えることがある。私は私という人間との間の調和を重視するのか、他者の一部との調和が大事か、はたまた社会全体との調和を考えるべきか。いずれにしても、何か一つ行動を選び取ると言うことは、何かに加担するということでもあり、何かを排他するということでもある、という大層な結論である。

 ともあれ、文部科学省の科研が採択される。そこには何のバイアスもなし。この世の春じゃ。

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明るい悩み相談室 :: 2010/04/04(Sun)

 かつて中島らも氏が新聞に連載していた「明るい悩み相談室」は、相当面白かった。悩みの殆どはきっと、そのときその人物の心の内側で足したり引いたりしていても仕方がないのだ。だとすれば「何だか自分が悩んでいることってちっぽけだなぁ」と思うために誰かに話して笑ってしまうのが一番だ。ただ、それは最も高尚な手段だとは思うけれど。

 ところで、最近、私のもとにも、若き青年らより時折「お悩み相談」らしきものも届くのである。以下を「夜も眠れません」シリーズと呼んでいる。

 『ぼくは、今ここに存在していてもいいのだろうか、と最近よく思います。存在している意味がよく分からないのです。太宰治の人間失格な気分です。これって、いったい何でしょうか。考えると夜も眠れません』とか。

 『恋人が出来たら、もう何もかもがどうでもよいくらいに幸せだと思います。でも、恋愛と性の関係について考えはじめると、なんか、奇妙に虚しくなって来るんです。夜も眠れません』

 私が心がけていることは親身になりすぎない、説明はしすぎない、煙に巻いてしまう、ということだったりする。もっとも、構って欲しいという欲求が彼らに共通してあるのは分かるので返信は必ず書く。

 Re:不確かな存在について。幸福について。愛について。
 
 『自分は存在してもいいのか?人は、一生涯を通じて自分以外に自分を承認してくれる他者を求め続けます。思うに、自分を取り巻く人との繋がりのなかにあなたが探してる「満たされない」何かがあります。

桜のにおいってするかな? 幸福と不幸は背反する概念ではない。不幸があって幸福が感じられる。
 また、幸福には刹那的なものと、ストックしていく二つの種類のものがあります。後者は、長期的な努力が基盤にあり、自分の成長欲求を叶えていくためには日々の辛さにも耐え得る類の幸福です。
 現代では、すでにお金では買えない一番得難い幸せを、みなが追求しはじめようとしています。

 「愛」とは「独占欲」「切なさ」「献身」「性的融合性」の要素によって説明されると考えた心理学者もいます。しかし、「愛」という概念は近代的産物で、規範的な側面すらある。人間が綿々と構築してきたものであるし、人の数だけ「愛」の定義はあるとも考えられる。その多様な愛の概念においては、必ずしも性と同一線上にあるとは限りません。

 さて、君はどんな風に人と繋がり、どんな風に幸せを実感する方法を獲得し、どんな人間になりたいのですか』
  
 こんな返信にもかかわらず、驚いたことに翌日にある学生から割と真面目な返信が返ってきた。どう生きたいか考えてみた、と言う。
 「なんか、先生、ありがとうございました」と書いてあったけれど、一週間後にまた同じところに自分がいることを知るのかもしれないなと、我が身をかえりみる今日この頃。

 でも、「明日が来る」ってことが、普段は気づかない一番しあわせな事だ。 

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