風と君を待つだけ

~my ordinary days vol.3~




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ベレーにショートブーツで走る。 :: 2010/09/30(Thu)

 長い酷暑だったが、もうその記憶も遠のき始めている。昨日から春先まで履いていた編み上げのショートブーツと再会する。今日はさらに秋冬定番のニットベレーをヘアターバンの替わりに被ると、すっかり装いは秋である。

ねっとわーく3 明日から後期の授業もスタートである。夏休み最後の今日、久しぶりに帰宅前に窓を開け放って掃除機をかけた。
 今年になって、比較的、大所帯にゼミ生を抱えるはめになったが、情けないことに、後期が始まろうとしているのにゼミ開催の曜日が上手く決まらない。○○の資格を取るため、○○試験対策講座、就活のため、アルバイト、部活、その他もろもろ。社会不安と青春のまっただ中が混沌として、それだけで気忙しい彼らと、とにかく現実的に器量いっぱいで生きている私との間でさえ折り合いをつけるのは、そもそも至難の業である。
 
 ゼミ日は「学生との協議による」とされている。もちろん指導教員の私が「この日に開催する!」と強引に決めても構わない。しかし、私は正直、前期から学生研究員の卵たちとして彼らに少し期待していた。小田さんのクリスマスの約束ではないけれど、ある研究プロジェクトに関わり、最後に「やったね!」と言い合えるチームになれればどんなに素敵だろうぁ。チームワークを何より大切にしつつ地域へのフィールドワークに連れだし、育てたいと考えていた私は、「負担をちょっとずつわかちあいながら」全員集まる日を自分達で決めるように言っておいた。
 しかし、代表になって調整しようとしている学生の一人から届いた朝一番のメールは、「集まれる日を決められない」という内容だった。多くの学生たちにとっての大学時代のゼミなどは、とりこぼすことなく、どうにかくぐり抜けられればよい。そういうものだろう。出来るだけ負担は軽く。通り過ぎることが出来ればそれにこしたことはない。過剰に期待してがっくり来る防衛機能も働き、こちらは割と冷静な気持ちになっていた。「君たちだけで決める力を期待したけれど、決められないなら私がやるわよ。別に責めるつもりはないしね」と何度目かのレスで伝えると、

 ”いえ!責められているなんて、思っていません!
  ただ最初から努力せずに先生の錦の御旗にすがろうとした自分が許せず、
  申し訳ないと思っただけです!
  ボクは、もっと自分自身のできることを努力してみます。”

 だって・・・どうやら苦労性らしい。
 さて、我がゼミはどうなることか。と言っても、これは4つ担当するゼミのひとつに過ぎない。
 
 明日から年末まで転ぶことなく、さわやかに駆け抜けてみたい、というのは夢である。
 実際は色々な事柄に翻弄されるだろう。
 でも、きっと乗り越えていく筈だ。


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カバーアルバム。 :: 2010/09/23(Thu)

 この10年近く「クリスマスの約束」でずいぶん沢山のカバーを聴いたけれど、そのなかの女性アーチストのカバーはとくに小田さんの声に似合って、新鮮かつ感動的で、聞き応えがあった。ユーミンの「ひこうき雲」やみゆきさんの「化粧」、ヒカルちゃんの「Automatic」など。もちろん洋楽のカバーも素晴らしかった。小田さんの”without you”の絶唱などは言葉にできないくらい鳥肌が立った。
 また、この数年で多くのアーチストにも楽曲提供している。是非、創った小田さん自身の声で聴いてみたいと思う曲もある。それらを集めたら、きっと容易く2枚くらいのアルバムになるだろうし、聴きたい人は少なくないだろう。カバーが全盛期の今、それでも小田さんは「絶対に」やるつもりはないのだろうな、と思う。きっと”二番煎じ”と微塵でも感じるものは嫌なのではないかと思う。

 この頃、事情があって近所の比較的大きな文具屋によく赴いて長居している。もっとも好き好んで居る訳ではない。店内にはよく聴くJ-popのオルゴール・アレンジした曲が小さな音で流れている。近所の思い切りごりごりされる整骨院のBGMは、お客さんと施術師の全くどうでもよい世間話だが、もう少しお金を出して入るマッサージのお店では、アロマの香りにオルゴール・ミュージックというパタンが多い。それは耳障りがよく邪魔にならない。「なんの曲だっけ?」と思い出せないこともあるほど、どれも同じアレンジなので個性が消える。その主張のなさが、疲れた神経を刺激せずヒーリングにも繋がるのかもしれない。
 先日も多忙の合間をぬって文具展に入り浸っていた。ほとんど頭痛さえ感じながら、「透明で、ファスナーが付いている」袋コーナーで悩んでいたのだ。そのとき、心に響く私を包み込むメロディが頭上で鳴っていることに気づく。あぁ、この曲が好きだな、とふと思う。次の瞬間に「これは小田さんの、今日も何処かでだ!」と分かって、しばし聞き入ったのである。疲れている自分を慰めてくれるこのメロディ。一瞬の自己憐憫を許容し、そのあとは3種類の袋をすみやかに選んでレジに向かった。

 先日の学会出張のあと、夕食に入った下町の大衆的な中華料理店でずっと、小さな音で流れていた音楽。「なんだろうな、この歌謡曲特集は・・・」と思い続けていた。曲が変わってもずっと同じトーン。雰囲気。ほとんどバラードで、エッジは効いていない。心地は全く悪くない。いわばオルゴール風である。
 
 お腹もいっぱいになり、ほどほどに幸せをかみしめた頃、「あぁ、これ、壊れかけのRの、あのひとじゃないの」と気づいたのだった。JUJUにコブクロにスーパフライ。歌唱力あるアーチストが名曲をカバーすれば、きっと、それなりの聴き応えがあるだろう。ひょっとすると原曲より良く聞こえる曲もあるかもしれない。私も少し聴いてみたい。
 ただ、彼らの大先輩にあたる小田さんが、未だに自身オリジナルの「名曲」を生み出す側に立つことにまだまだこだわっている。「晩年に名曲ってなかなかないよな?最初のうちに出しちゃうからだな」と言いながらも。彼は、武士のようなアーチストである。
 と、その潔さと、高い丘の上で風に吹かれているような佇まいに、相変わらず深い感銘を受ける一方で、私はといえば、何の業績にもならない報告書に書いたものに新たなデータと視点を加えて、何とか一報の論文せんと企んでいる。セルフ・カバーである。違うか。

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にぎやかな個食:マグロ編 :: 2010/09/20(Mon)

 先週末は東京に続いて、滋賀方面へとある委員会関連の出張。毎週、ニシへヒガシへ、である。帰りは連休を利用して久しぶりに実家に立ち寄る。

 一応は実家でも仕事が出来るように、いろいろと持参して行ったが、結局は疲れて何もせずに戻って来るのだろうなと実は思っていた。しかし、思いがけず、3つのうち2つには手をつけた。おそらく、私と似た性格ゆえに(認めるのが腹立たしいが)いつも締め切りや何かの準備にせっぱ詰まっている父の存在のせいだろう。

 今度、どこそこで喋るのだが、資料に加える図表が「上手く描けないから作ってくれ」と言う。先日も似たような依頼に手際よく対応してやったために、きっと味を占めているのだ。昔は、母がそのような秘書役を一身に請け負っていた。
 黙って作って渡したほうが簡単なのだが、「どうして、この矢印とこっちの矢印が同じ種類なの?」とか「この記述の仕方だと矛盾が生じない?」など、いちいち気になったことは言わずにいられない。そのうち、あれこれと内容に深く関与し、議論になり、父の資料はお陰でよりブラッシュアップされるが、私は十分に疲弊する。こうした「代行仕事」だけしていては、普段の「事務仕事に忙殺される」状況と同じだ。たぶん、それがとても悔しいので、そのまま自分の仕事にも移行したのだろう。
 
 ところで、我が家は昔から明らかに「個食」だが、「孤食」ではない。
 母が用意してくれるブランチを、広いリビングテーブルで優雅に頂こうと思っていると、父がのそのそと起き出して来る。「めぐみ、何食べてるの?」と必ず聴くのは何故だろう。本当に必ず聴くのである。
 やがて、隣で新聞を広げて読み始めると、その向かいに、いつの間にか母も座って何かつまみ始める。全く脈絡なく、父が突然「ところでさぁ」と言い始めると、すでに優雅なブランチムードがなし崩しになって行く気配が漂う。予感どおり、起きてすぐ考えるには、面倒くさ過ぎる話題を振ってくる。
 それとは関係なく、母が非常に日常的な質問を、私が父への適当な回答を並べている途中で、父に投げかける。たとえば「お父さん、入れ歯はどうしたの?」といったような。それには全く答えずに、父は娘のアンニュイな回答に飽きて、目前の新聞記事に激しく反応し、持論を展開し始めようとする。と、さっきの入れ歯の返答は、もういいのか?!とつっこみたくなる間合いで母がすかさず、応戦をはじめる。
 やがてまた、話題が変更になり、”何が○○症候群と言われるようなものにカテゴライズされるのか?”について3人で揉める。わずか1時間もない間に、どれだけ喋っているのか。
 
赤い糸 時に、夕飯時に「そのマグロのお刺身、美味しいでしょぉ?もう一つ食べる?」「うん、食べるー♪」と母娘が可憐な会話を交わしている間は平穏である。しかし、油断すると、父が食器に加わった「私のマグロ」を、テーブルに着くと同時に、あっさりと指先でつまみ上げて食べてしまったりする。日常茶飯事な出来事なので、別にどうとも思わないが、きっとよそでは普通ではなかろう。
 以上がにぎやかな「個食」、の実態報告である。

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駅前のできごと。 :: 2010/09/14(Tue)

 「おばあちゃん?」

 と思ったのは、昨日、定期的に通っている病院に行くために駅前を通りかかったときのこと。
 そのときの私は、珍しく午前中からサクサクと仕事をして、もっとも手つかずで気が重い仕事に取りかかれたことで安堵し、やや上向きな気持ちで歩いていた。「仕事」と言ってもはっきり言えば雑務である。取りかかる事自体があまりにストレスフルで、思わずメモに「決してイライラして、損などしない。今日はニコニコ効果をはかる日」と、これ以上ないほどにゆっくりと丁寧に書いた。
  
 そんな気分で歩いていく私は、視線を感じた。遠くから自分を見つめているその女性は、駅前で人を待っているような風情で立っていた。華奢な人だった。全身、目立たないような黒い洋服を着ていたが、それでも、その洋服は明らかにモダンなデザインだった。少し赤みの入った眼鏡をかけており、私をじっと見ていたけれども、全く嫌な感じがしなかった。
 私も改めて彼女の顔をよく見つめた。祖母にとてもよく似ている方だった。亡くなる寸前の祖母でなく、おそらくは15年くらい前の彼女の姿である。祖母は美醜を気にする人だったのだ。きっと、あんな素敵にモダンな洋服を着る機会が若い頃にあったら喜んだだろう。
 「あれ?おばあちゃん?」と思った瞬間、そのひとが今にも「めーちゃん」と祖母独特のイントネーションで言い出しそうな気がして、彼女の前を通り過ぎる瞬間が何秒にも感じられたけれど、やはり、そんな風に声がかかる訳ではなかった。
 
 それでも、突然に涙が出そうになった。全く悲しかった訳ではない。なつかしかしくて、なつかしくて、そして、嬉しかったのだ。母も「今もおばあちゃんのこと、ふっと、思い出すのよ」と言う。
 折々に、祖母は、私たちを見守りに来ているのではないかと思う。家族だから愛しているとか、親族だから愛しているとか、それは私の感覚からすると少し違うと思う。
 愛しているから、家族と(家族のように)思う。

 ★今日は自分で撮影したカフェ写真を集めてみました。

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地球は美しい。 :: 2010/09/10(Fri)

 夕刻。数日前から風がほんの少しだけ変わった。夏の終わりの兆し。

 寝付けない夜、テレビがあまりにもつまらなくて、ずいぶん昔、録音したラジオを聴いたりしていた。ちょうど小田さんがクリスマスの約束の第一回目を終えたあたりの頃に出演した番組だった。
 小田さんは、もうそのころから結構な饒舌だった。「自分はおしゃべりだ」とまで断言してた。
 でも、何よりも印象的だった話が二つある。
 
 「歌詞が書けないときは、鉛筆と紙を持ってお風呂に入る」

 この話はとても有名だったけれど、よく聴けば「紙って濡れると壁に張り付くじゃない?そうやって何枚も壁に貼って、一度に数曲を同時につくったこともあるんだよ。で、もう書けるまで出ないと決めてね」という話。
 図らずとも裸体の小田氏がバスタブに座って「考える人」のポーズを取っているのだろうかとか、とか、あるいは並べた歌詞の前で仁王立ちになって眉間に皺を寄せているかしら、など色々な姿を想像して思わずニヤニヤと笑ってしまう。クスクスではなく、「ニヤニヤ」なのは何故だろうか。とにかくも、とっても才能溢れる人の人間味溢れる姿というのは、微笑ましい以上に「みんな追い込まれたら一緒なんだ」と安堵というか、ちょっと嬉しい気分になるのは、私の性格がちょっと歪んでいるのかもしれないが、愛しているのだ、そんな小田さんを。

 もう一つは、「どんな季節が好きか」という話題から派生し、何でもない季節の変わり目の並木道や、風の流れに小田さんは「あぁ、地球って美しいな」と感じられると語っていたお話。
 「地球って美しいな」。さりげないこの言葉に思わず胸がきゅんとした。
  
 たとえば、だけれど。「ビーチには煙草を持ち込まないこと」。そんなささやかな自然への配慮さえ拒むような人が、自然の恩恵を受けて良いものだろうか。

雑貨屋めぐりでテンション上がる。 地球は、人間がもうこれ以上ないほどに傷つけてしまっている。これからずっと何年もかかって恩返しし続けても、もう元には戻らないかもしれない。気づかないところできっと毎日、毎日、地球に申し訳ないことをしている筈の自分に僅かでも気づきたい。近頃、読んだ森と、そこに生存するクマを救おうとして立ち上がった人達の話を思い出すのだった。人は人として生きる以上は「事実を正しく知る」ということを放棄してはいけないと思った。何か行動を起こせなくても、まずは「知る」ということだ。
 
「信念を貫く」だなんて言うよりも、「君はどう思うの?」と地球に、他者に、自分に問える人になりたい。
 9月中盤にさしかかる。まずは自分の身体の声に耳を澄まして。健康こそが、僅かにでも、何かの力になるための大きな資質だもの。

 反省

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我が身を振り返る。 :: 2010/09/02(Thu)

 事務からの通達。私が担任(数年前から大学にもかかわらず、ゼミ教員以外に各学生に担任がつくようになった)を引き受けているとある学生が、「前期の授業料が未納ゆえに、すぐに保護者なりに連絡して状況を把握して報せよ」とのこと。さもなくば除籍になってしまう、と。数日前に連絡を受けたが直ぐに対応できずにずっと気がかりだった。

 当人の学生とは色々と縁があって単なる表面的な仲よりは少し深い。こういった場合、親に連絡するほうがいいのか当人に「どうなっているのかな?」と聴いてみるのがいいのか迷った末、単刀直入に保護者のほうに研究室から連絡を入れた。 
 
 幸いなことにすぐに連絡はついた。別に恐縮して頂く必要もないのだけれど、わざわざ連絡をさしあげた割には悪びれる雰囲気は微塵もなく、保護者からはこちらの心配とはかなり剥離のある悠長さで「振り込み用紙をなくしてしまって探しても見あたらなくて」と関西独特の砕けた様子で打ち明けられた。つまり支払う意志はあるということだ。「そっち(大学)に新しい振り込み用紙取りに行かないとダメですかねぇ」と聴かれたので、「いえ、再発行を事務に依頼して郵送できるのではないかと思うので、聴いてみます」と言って電話を切った。「そうしてくれたらありがたい」と言われた。「申し訳ありません」とは言われなかったと思う。もっとも、私が謝られる立場でもないので構わないが、正直、面倒であることには変わりない。このような事柄は日常的に一つではないので、多々、積算されてゆくとストレスとなるのだなと思う。
 事務に事情を話す。そもそもこちらに事務から送られてきたメールには、学生の学籍番号、連絡先、保護者の連絡先のすべてが明記してある。学費未納学生の担任に一人ずつこのようなメールを書いたのだろう。事務の女性は「あぁ、郵送は出来ないと思いますねぇ。契約室まで取りに来て貰わないと・・・あと、契約室にすぐに発行してくれるか聴いてみないと・・・」などと言うので、「そうですか。それで、私がその事を改めて保護者の方にお伝えすると同時に、私から契約室に再発行をお願いするわけですか?」と聴くと、「あ、ではこちらで契約室に聴きます」と言われた。

 しばらくして、その事務の女性から「学生本人に、本部3階にある契約室まで再発行の振り込み用紙を取りに来て貰うように保護者の方に連絡を済ませました」と言ってきた。「そうですか、ありがとうございます」と言って電話を切ったが、何となくあらゆることが「これでいいのだろうか」とスッキリしない気分になった。

 と言うのも、その学生は、実は普段、車いすを使って学内を移動している。夏休み中で講義もないだろうに、大学まで出向き、3階までわざわざ用紙一枚を貰いに行くのは大変ではないだろうか。こうした場合、私が取りに行って郵送してあげてもよかったのではないか。あるいは大学がそのあたりは融通を利かせて郵送という手段も講じてよかったのではないか、など。それとも、規則は規則。遵守して貰っての秩序なのだろうか。
 それから最終的に事務職員が取った行動を観れば、こういった類の対応は、担任である教員を媒介にする特別な理由がない限りは、あくまでも事務レベルで行ってしまうほうが合理的だったのではないか?といったことも重ねて感じたのであった。

 何はともあれ、「期限内に物事をきちんと澄ます」といったことは、どうしようもない場合を除き、案外、とても大切なことなのだ。一つボタンを掛け違えると、自分だけの問題ではなくて、方々に迷惑をかけてしまう。ある程度の「迷惑」が許容される社会が豊かだとは思うけれども、さしたる理由もなく「ま、いいや、遅れても」などと思ってしまうのは、意図せず自分だけお客さま気分でいるのに気づいていないのに近似するのかもしれぬ。
 私が院生の頃は、必ず「授業料の支払い期間」を過ぎてしまって督促状を受けてから事務まで払いに出向いていた。半期で20数万。奨学金を学費に充てていた頃だ。あの頃は、支払い時期が少々遅れるからといって、大したことはないと思っていた。でも、そうではないのだ。事務側にまわってみれば直ぐに分かる。督促状を出す手間。紙の無駄。事務仕事の後倒し・・・とこういった事柄は一つ一つはささやかでも、積み重なって最終的に誰かにストレスを与えているのだ。

 と、我が身を振り返りつつ、大学組織のあり方はこの先、どうなっちゃうんだろうと思いを馳せて9月に突入。

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