風と君を待つだけ

~my ordinary days vol.3~




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ブルーマンデイ乗り切る。 :: 2011/04/25(Mon)

 大船渡から届けていただいた「羅針盤の針は夢に向け」を、毎晩少しずつ堪能しながら読み進めている。序章と終章を先に読んでしまったのだが、「櫻田慧」という人を描こうとした著者自身の情熱のほうに先に感動してしまったのである。例えるならば「情熱大陸」のナレーションが聞こえてくるような、実にすっきりとした文体で非常に読みやすい。
 かつて、小田さんがアーチストである自分が初めて映画を作った時に体験した数々の苦労を題材に制作した二作目の映画を観たときの感覚を思い出した。物語の主人公の向こう側に、作り手である小田さんの姿が見える。いや、向こう側というよりもほとんど重なるようにして存在している感じなのだった。

 羅針盤の針・・・と時を同じくして、小田さんの新譜がアマゾンから届いた。
 最近、10数年ぶりにオーディオを買い換えて本当によかった。いつもとは趣の違う感動に胸をいっぱいにしている。
 
 以前、NHKが放送している佐野元春の番組に小田さんがゲストに呼ばれたとき、とある縁があって収録の様子を一般席の一番後ろから観させて貰った。事前に、紙が配られた。小田さんに質問してみたいことを何でも書いてよいとのことだった。採用はされまい(学生のための講義だったので)と思いながら「小田さんが自分の文字を目にする可能性はゼロではない」と、ちょっぴりときめきながら、綴った。
 『小田さんは、ほとんどの楽曲において歌詞ではなく、曲から作られるそうですが、かつて何かの折に、”あともう少しのメロディも詞が救うことができるが、その反対は絶対にない”と仰っていたように記憶しています。(ちなみに矢野アッコちゃんは真逆のことを言っていた、歌詞は二の次と。)そのお気持ちは若い頃から一貫して変わらないのですか?』

 なかなかいい質問ではないだろうか。しかし、見事に採用されなかった。

 それはともかく、今回のアルバムほど「ことば」が先行して聞こえてくる機会はなかった。小田さんのあの美しく、また、きっぱりとした説得力と、それゆえに包容力ある声、その声を引き立てる心を高揚させるメロディが「ことば」のために存在している。
 小田さんのうたは普遍的な、いまを生きる私たちの「祈り」だと思った。どんなみじめで情けない自分も肯定し、生きていてよい、それでもかまわない、明日はきっとやってくる、君のために明るい明日を祈ると、何度も何度も励ましてくれる。もう俺にはそんなに伝えたいことはないんだよ、と小田さんは言っていたけれど、私は何度でも同じ言葉を、その今の声で聞きたい。

 昨年度はあまりに多くて負担が大きかったが、このごろゼミのシステムを大きく学生の自主運営型にしてから、何だか彼らの成長が楽しみで仕方がない。そして私の研究室には数年前から小田さんと同世代の女性が、嬉しいことに出入りしてくれている。その方の存在感は大きい。
 今、我がゼミには男女がちょうど同数、社会人の方もいて、子育て世代の学生も混じり、学部内でも珍しく多様性に満ちたゼミだと思う。こんな風な経験はいつでも出来るものではないと貴重に思っている。小田さんと同世代に女性は、我がゼミでもっともみずみずしい感性の持ち主だ。今夜のメール。

 『めぐせんせい。私はゼミがとても楽しみです。学生さんたちとわいわい話ができて、そして真剣に発表する彼らと同じ机で勉強出来ることはとても幸せです。ひとりひとり個性があり、それぞれ自分の内なる声に耳を傾け、掴みとりたいものを探しているようで、見ていて皆に拍手を送りたいです。
 今度は飲み会じゃなくて食事会なんですね。とてもとても楽しみです!大学にきてはじめて!一度参加してみたかったんです。わたしは彼らが大好き。真摯な彼らを応援したいです。だからもちろん、温かく見守らせていただきますよ。そんな彼らと真っ正面に向き合われてるめぐ先生にも拍手を送らせてもらいます。がんばってくださいね』

 今週のブルーマンデイ、まもなくおしまい。一週間後の月曜日。連休の狭間にも関わらず、学生は来る気満々らしいので、ゼミ開催決定。珍しくわたしが自分から言ってしまった。「ゼミ終わったら、どっか遊びに行っちゃう?」普段、就活だのバイトだの何とか講座だのと言っている連中だった気がするが、だれも反対しなかった。

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グッバイ。 :: 2011/04/14(Thu)

春休みを経て久しぶりに開催した先週のゼミ日記から。
 
【今日のゼミで学んだこと・感じたこと】
・人間は時間がたてば忘れる生き物!!だから、記録を残さねばならない
・子育ては個人的な営みだと思われがちだが、公共の場で語られるべきものだ。
 個人的なことは社会的なこと。あたらしい公共空間をつくるという視座。
・頑張って大学で勉強して、東日本大震災の復興に向けて日本の社会に貢献できる大人になろう。

 まだ夜は肌寒いけれど桜が散り始め、次に来るのは新緑の季節だ。
 リリースされた当時はあまり熱心に聞かなかった小田さんの「グッバイ」がとても胸に沁みこんでくる。全く無駄のない職人的なフレーズや洗練された完成度の高いメロディに、歌っているような佐橋さんのギターも相変わらず秀逸なのに、なぜか心を素通りしていた。あの頃、曇空のように不満や不平が心を覆っていたのではないかと思う。
 けれども、この曲はかつて夜のニュース番組にも使われた「明日」に通じる感動を持っていることに今頃になって気付いた。小田さんの声はさらに変わったと思った。「年輪を重ねた」とはっきりと思った。突き抜けるようなハイトーンボイスで小田さんの唄声を象徴するのではもう足りない。言葉の一つ一つが切々とした趣をもって伝わる。
 どんなに想っても、きっと伝わらないかもしれない。かなわないかもしれない。世の中はそんなことばかりかもしれない。それでも祈ることや想うことで希望に繋げようとするような「ちっぽけな誇り、それだけ」。小田さんがギターを抱えてステージに立ち、この曲を白い光のなかで熱唱する姿が目に浮かぶ。きっとライブで聴くと何倍も素晴らしいに違いない。

 ありふれた、ただの日常でさえ生きるのがしんどいと思っていたら、あんなにも人々を傷つける天災が起きた。それでも立ち上がろうとする人たちを太陽は等しく照らしているだろうか。季節はどんどん通り過ぎてゆき、春が来て夏が訪れ、同じように秋が来て冬が来る。多くのひととの出逢いや別れがあって。
 私たちは人生の終わりに向かって、一日一日にお別れして生きて行っているようなものだ。そんなことを初めて思った。素敵なことはずっと忘れない。悲しいことも時の流れのなかで素敵な出来事に統合されていくはず。
 
 新しい明日のためにグッバイだ。

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希望。 :: 2011/04/11(Mon)

 これだけメディアなどを通じて「自粛してくださる気持ちはありがたいです。でも、どうかお花見をしてください。私たち東北のものたちが作ったお酒をたくさん飲んでください。」と切実な訴えがあるのに、わが県のお城周辺でも、夜のお花見は右にならへの自粛モードらしく一切の明かりが消えている。
 でも、関東付近では「それでも、お花見決行組」の人たちがいて、テレビの取材に応えていた。「今だからこそ、友人たちに会おうと思って。いつでも会えるのが当たり前じゃないってことが分かったから・・・」。まるで線香花火のような手持ちの明かりのなかでしっとりと、お互いの生命の存在を感じあっている姿を見て、そうした日本人同士がとても愛おしいなと思ったりする。そう、この頃「我が国」とか「日本人であること」を色々な意味で意識するようになっていることに気付いた。関西人の前に日本人だと。

 諸説あるとは思うが、ある本によれば日本人は「リスク」を1か0でしか見ない傾向が強いらしい。だから「もう駄目だ」と思ったときには、ものすごく諦観するのも早い。これは、未経験なリスクであるほど受容し、その状況に一生懸命に適応しようと努める力もつよい、とも言えるのかもしれない。
 
 テレビを点ければ、行政や電力会社に対してコメンテーターと呼ばれる人たちの多くが確かに「とにかく、安全なのかそうじゃないのか、どっちかはっきりしろ!」と叫んでいる印象が一時期まであった。ゼロリスクという状況を生み出すこと自体が、本来は困難であることは想像には難くない。リスクは連続的に存在しており、いかに小さい程度に抑えるかという視点を持つ欧米とは異なるのは、その文化的背景もあるらしい。
 
 そうした議論はさておき、集団平等主義の我が国では、多額に集まった義援金も長々と公平性を議論した末でなければ配布できない。しかし、多くの被災地の方々は、考えられないリスクが襲ってきたとき、隣人を助けること、秩序をもってお隣さん同士で生き抜くことを完璧に、瞬時に、選択できたのだ。
 周囲から一歩抜きん出ることを嫌う一方で、集団秩序が保たれやすい日本人には、とても素敵なところと、何時までも、ぐずぐずしちゃうところと両方ある。それが今の日本なのだから、批判や非難ばかりしているのもどうだろう。個人のほうが稼働力はある。小さい共同体のほうが瞬時に物事を決定しやすいのは当然。お上が動くのが一番遅いのは、情けないし悔しいけれども、今にはじまったことではない。

モノクロ桜 この春、4回生になったゼミ生たちに、「あなた達が今すべきことは、長期的な視野を持って日本人を生きていくことだと思う。未来の日本をしっかり支えることが出来る市民になってほしい。今こそ、一生懸命に目前の課題に取り組み、学び、問題を解決する力や多くの知恵を蓄えることだと思います。」と伝えた。こんな事が起きたこの年、私が彼らと共にこの1年を歩むための決意表明でもあった。
 ある学生がこう言った。「今回の震災でぼくは思いました。住民が行政を眼の敵にしたりするのはもうアカンのちゃうかって思って。二つのうまい連携のあり方を考えて、マジで未来の社会に活かせるような提案とかしてみたいっす」。そんな宣言に研究生の社会人女性が拍手でエールを送る。そんな青いことを、と誰に言わせようか。夢を語る社会でなければ、若者たちが。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ところで、昨年、とても奇跡的なご縁があり「大船渡」に暮らす女性とブログを通じて知り合うことになりました。その方がSatoさんに送ってくださった手作りクマのぬいぐるみが、今は、茶色い毛並みのお兄さんクマや、羊のぬいぐるみ「メーちゃん」たちと並んで我がリビングの一番目につく場所に可愛くおさまっています。
 大船渡で新聞記者をしていらっしゃるその方のご主人が、以下のような本を著されました。震災の直前に販売が決まっていたものだそうです。目下、アマゾンなどで取り扱いが出来ないのは出版社が機能不全になっているせいかもしれないですが、必ず手に入れようと思っている一冊です。

『羅針盤の針は夢に向け』

 この本のご案内を震災直後に奥様が書かれています。
   http://benimasa.blog85.fc2.com/blog-entry-460.html 
 素敵な本のタイトルにぎゅーーっと胸をつかまれて涙が出そうになりました。


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添削希望。 :: 2011/04/03(Sun)

 本来であれば、昨日は神戸にて小田さんのツアーに久々の参加予定だったが、震災の影響でたくさんのコンサートやイベントが中止や延期になる中、小田さんの半年に渡って予定されていたツアーも日程変更が相次ぐこととなった。まだ落ち着いて楽しく参加できるような心境にはとてもなれない、と感じていた自分にとっては、神戸でのコンサートが延期されることはむしろ好ましかった。
 
 先日、いわゆるツアー日程の変更に伴ってコンサートに行けなくなってしまうだろう人を見越しての案内文書が届いた。「はて?これは何かの謎解きか?」。最初の3行から全くさらりと頭に入らない。すべての文書をくまなく読み直し、やっと何が言いたいのか推測に至った。

 ●冒頭3行
 『今回、振替となった各公演の先行予約にて当選し、
  入金手続きが完了している方(このお知らせが届いた方)を対象に、
  振替希望の有無、ならびに枚数変更(減少のみ)を下記の方法にて承ります。』

 ●さらに注意事項(一部抜粋)、
 ・振替公演に枚数変更なくご参加頂ける方はお手続きの必要はございません
 ・「振替を希望する(振替公演の希望枚数1枚以上)とご登録頂いた公演につきましては、
   振替公演の2週間前までにチケットをお送り致します。
  ・(中略)「振替を希望しない(振替公演の希望枚数0枚)」とお手続き頂いた公演につきましては、・・・・返金いたします。』

 読むほどに、解釈に努力を強いられる文面だった。理由として、多用される「振替希望」という言葉の用い方に問題があるように思う。ツアー事務局が、前提として「当初に予定していた日の代わりに、別の日に延期して開催する公演」のことを『振替公演』と呼んでいることは分かった。しかし、当然ながら振替公演日は事務局が組み直したものでありファン側の希望が反映される類のものではない。
 
 コンサートを心待ちにしている人間にとっては、日程変更によって”参加できなくなる”という事態が起きないことを祈るばかりだ。いったい自分が行く筈だったコンサートは何時に変更されたのだろう?と目をこらして確認する。この時点で「あ、この日なら行ける!ラッキー!」とうい人と「あぁ、だめだった・・・この日は仕事で行けない・・・」という命運が分けられるのだ。
 そうした心理状況にあるファンに向けて、冒頭の『振替希望の有無』という言葉は誤解を生じかねない。「ん?もしかして、変更された日程で都合がつかなければ、別の日のコンサートの参加希望(振替希望)を聞き入れてくれるのかな?」と勘違いしないだろうか。少なくともこの私が一瞬、そう解釈しそうになった。

 「振替希望の有無」という書き方に違和感があるのは、重ねて書けば、振替は個々の”お客の希望”が叶わない可能性も含む次元ですでに決定された事だから、である。基本的には行けなくなってしまう人達に選択の余地はない。『公演を振替にするという事実』について、あたかも個人の希望の有無を尋ねているように見えるのが誤解のもとだ。要するに「払い戻しの必要性」のみを尋ねればよい。たとえば次のように。

 『チケット払い戻しの必要がある方は、その枚数を、以下の手続きによってお知らせください』
 都合がつかず、行けなくなった人にシステム上では「希望枚数:0」と入力させるようだが、「払い戻し希望枚数:(  枚)」と書いてあるほうが自然だと思う。

 おこがましい事を承知で言えば、私はこの案内文書の「添削を希望」である。
 ちなみに私はコンサート前日、前々日は静岡出張の予定だ。仕事が終わった足ですぐに関西に戻り、翌日、神戸にすっ飛んで行くことに。それでも一度でも足を運ぶ可能性を手に入れたのだから、本当に幸いである。

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