風と君を待つだけ

~my ordinary days vol.3~




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卒業まであと少し。 :: 2012/01/22(Sun)

 本屋に久々に立ち寄る機会があった。我が町では、まずまずの大型書店である。
 
 とある英語雑誌が置いてあれば買って帰ろうと、真っ先にレジに向かった。レジ横のパソコン前にいた若い女子スタッフに本の題名を伝えて書店に置いてあるかを尋ねる。パソコン検索すれば、商品が「あるかないか」が判るまでは30秒と見込んだ。無いと判れば長居する用事もない。
 ところが、探して欲しいと伝えると「えーーーーっと・・・」と言い出して、何故か宙を見つめている。その時点でもう良くない予感がする。隣にいた男子店員が、こちらも見ずに「検索したら?」と冷たそうに声だけかける。手を貸す気配がない。お客の前でその態度はいかなるものか。
 
 「あぁ・・」と言う彼女がパソコンキーボードを打つそのたどたどしい手つきや、要領を見ているうちに「絶対にこの子には見つけられないだろな」と確信する。結局、上司らしき男性がわざわざやってきた。検索画面を3つほどいじった挙げ句に「えーっと。うちには定期購読の雑誌は置いてないんで・・・お取り寄せでしたら来週以降の・・・」と悠長に言い出した。「いえ、もう結構です」と言ってしまう。インターネットで探し出せれば明日にも到着という昨今である。
 
 ところで、「しごとがしてある」という言い方があるらしい。さりげなく、”気の利いた工夫”がこらしてあること。その仕事の成果を受け取った人に「あぁ、助かったなぁ」とか「心が温まるなぁ」とか「なるほどなぁ」といった+αの気持ちを残すもの。たぶん、仕事への誇りや人間愛。そういった人と一緒に仕事したいと思うならば、自分がそんな人でいなくちゃいけないんだな。それが、新しいことを相互の力で生み出すための基礎力だと思う。

 ちなみに探していた本は、想像どおり、インターネットの検索で容易く注文出来るサービスが見つかった。人がわざわざ関わるサービスの意義は、ますます問われる時代だ。機械の隙間を人が埋める時代。だからこそ、人が十分に頼りになった時には謝意を伝えること。世の中のよい循環を願う。近頃は我が学生たちのためにそう願う。

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相互観察。 :: 2012/01/15(Sun)

 センター入試が終わる。
 入試委員の先生方をはじめ、監督業務をこなした我々、縁の下の力持ちで立ち働いた事務職員さんたち、加えて受験生、関わった誰も彼もが、もう本当にお疲れ様でした、としか言いようがなし。入試会場の教室では「いかに眠気に耐え、そして、寒さをしのぐか」考えねばならない。私は普段、窮屈なのが嫌なので、それほど着込まないが、このときばかりは考え得る限り、最低現の重ね着をする。案の定、出向く前からもう肩が凝っている気がして、先に頭痛薬を飲んだ。
 
 今年担当したのは幸いにも小規模教室だった。丸一日、同じ教室で同じ顔ぶれの20人程度の生徒たちと接していると、ほんの少しずつ親密な空気が生まれる。監督は入試センターが定めた文言を一字一句、機械的に読み上げねばならない。でも、やはり、人は機械ではないので、回数を重ねるにつれて毎度、同じことを言うにもアドリブを加えた個性が滲んで来る。これは毎年、面白く観察する部分だ。
 「これで試験はすべて終了です。」を言い終えたあと、思わず「じゃあ、みんな、気を付けて帰ってね」「お疲れ様!」と、やっと素に戻って言葉をかけられる時、その解放感が受験生にも伝わるに違いない。ほわっと彼らの顔がほころぶ。その瞬間は、自分たちの報いのためにも見逃さなかった。「お疲れさまでした」と半分くらいの生徒たちが我々を多少労うように呼応したり、ぺこりとお辞儀したりしていた。
 
 今年は、試験監督に対する過剰なクレームは殆ど耳には入って来なかった。部屋を巡回するために、歩き回られるとうっとうしいとか、鼻息が聞こえていやだったとか、側に立っていたから集中できなかったとか。挙げ句は監督の服装や、存在自体を否定するような、殆どモンスター的なクレームが、年々増えていたので今年もさぞ奇想天外なクレーマーが出現するかと思っていたけれど。
 それほど、我々はある意味、案外「見られている」。縁のある学生は何処までも縁があるらしく「入試のときの監督が先生でした。間違いないです。覚えてないですか?!」(覚えていて欲しいのだろうか)・・・・と入学後に割と親しくなる学生によく言われる。
 そして、こっちも案外、記憶にまではとどめないにせよ、君たちを「見ている」。じっくりと人間観察をしているのだ。なくて七癖。問題を解きながら髪をずっといじっていたり、ぼりぼりかいたり、貧乏ゆすりが止まらなかったり、ペンをくるくる回したり。靴を脱いで足を組んだり、鼻をほじってぺろりと嘗めたり、宙に視線を泳がせていて、はっとこちらと目があったり。そうゆうのをずっと見ながら、眠気も吹き飛ばしてるんだぞー。だから、昨年度入試でケータイを使ったカンニングが誰にも発見されなかったのは、実は本当に不思議なのだ。

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2012年始動 :: 2012/01/03(Tue)

 春雨の ひと日 ひと夜に 暖かく 柳桜も 色づきにけり

 「春雨に柳がいろづき桜の蕾がふらみ始めるようにゆっくりと運勢がひらけて参ります。何よりも今が大切な時期です・・・」

 初詣。この数年は、中学時代の親友と一緒に、近所にひっそりたたずむ小さな神社に出向いている。
 彼女は中学の頃、ギター部の一学年上の先輩だった人だ。だから、私のことを「めーちゃん「」と呼ぶ以外に、時々改まって「君ねー」と言ったりする。
 高校になって彼女は写真をはじめた。もともと芸術的なセンスがあった。少年のようだった当時の私を「めーちゃんを撮影したい」と言って彼女のモデルを務めたことまで思い出した。できあがった写真を観たとき、「なんだかな、このひと」と思うくらい、ちっとも良いモデルには見えなかった。けれど、それは確か、地方新聞だかのコンテストに入選したとのことだった。嬉しくはなかったけれど。思えばあれが「被写体」となる最初の体験と言える。


 お賽銭を入れて、それぞれに新しい年へのお祈りをする。
 そして、おみくじを引く段となると、友人の「この神社のおみくじの信頼性に対する疑義の申し立て」がはじまる。「ま、ま。お正月から神様の前でそんな悪口は・・・」と、私が笑いをこらえながらたしなめるのも、いつもどおり。そして、おみくじを引いたあとに、その内容に腹を立て、「なんやー!この、いちいち、くっついて来るいちゃもんは!!」と友人が神様の前で、さらに伸び伸びと悪態つくのも、いつもどおり。
 この歳になると、そういった気心知れた同士の「いつもどおりの」展開が、もう楽しくて仕方がない。
 
 私は今年も、昨年同様に「吉」を引いた。しかも文言まで昨年どおりである。この愛しき人生の禍福の両方が混ざった面白い一年にしよう。「頑張らないと知らないよ~」って感じが、かえって燃えるのであった。

 この数年は、ずっと「大吉」を引き続けた友人も珍しく「吉」を引いた。ただし、私と彼女では、内容の文言がちょっとずつ異なる。彼女のツッコミも一緒に再現(笑)
 ○失せ者。
  私:「出ないでしょう。」
  友人「出ず。探しても無駄です。(無駄ってか?探すのは私の自由や!)」
 ○お産。
  私:「お祈りすれば安し」
  友人:「あれこれと悩まずに産んでしまいなさい(え、何か悩む必要があんの?!」
 ○恋愛。
  私:「心素直に愛を告げ お祈りすれば結ばれます」
  友人:「良縁あり。ただし、その道は困難あり(これの、どこが良縁なん?!)」
 ○旅行。
  私:「お祈りをして出かけなさい」
  友人:「飛び立ってしまうがよい(逃避行か?!)」

 以上(笑)。

 初詣を済ませて、またいつものショッピングモールでお茶をする。ここで燃えたぎるように話し尽くすのもいつもどおり。いつもどおりではないのは、ちょっとずつ、この一年で互いに悩んだことや、抱えている課題が異なっていること。互いを見つめながら、助言を提示しあうときも年齢を重ねると少しずつ変わっていくものだ。
 ただただ、正攻法でまっすぐに直球を投げて来たという彼女が、そのアプローチ方法について模索を重ねつつある。翻って私は今、種々様々に求められる役割や、自分が成し遂げようとする目標との狭間でのバランスをあらゆる場面で図りかねている。それも模索する一年になるだろう。

 何はともあれ、お互いに健やかでいること。
 日もすっかり落ちた頃、やっと手をひらひらと振り合って別れた。そのときの友人は、あの中学の頃と、全く同じ屈託のない笑顔だった。そんなことが嬉しく思えた。

 元旦、二日の家族の記録は改めて。

 年賀状は何とか出せました。
 でも、大晦日を過ぎた朝方にようやく投函できた次第です。
 お年賀のおつきあいのある方々、新年のご挨拶が遅れてごめんなさい。



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