風と君を待つだけ

~my ordinary days vol.3~




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安心でないことと、希望と。 :: 2013/04/21(Sun)

 くるりが、数年前に京都で開催した音楽博覧会で、小田さんと一緒に披露した「ばらの花」。どうしても全部聞き直したくて収録されている記念版CDを購入した。オリジナルも当然、すばらしい曲だ。でも、とりわけ、このライブパフォーマンスには、観ている人たちの心の震えまで臨場感として伝わってくる。
 シンプルなギターサウンドと、後半に巻き上げていくサビ。小田さんの新しい高音域メロディーと岸田くんの潤むようなオリジナルメロディが相まって泣きたくなる。

 
 ”安心な僕らは旅に出ようぜ”・・・の歌詞に興味を持った小田さんに、確か岸田くんは「ほんまは全然、安心じゃなくて不安でいっぱい(もごもご)」といったような説明をしていたように思う。それがすごく印象的だったので、歌詞カードを何度もかみしめるように読んだ。
 
 ちっとも僕らは安心じゃない。駄目なのかもしれない。でも、だから明日に希望を持ってみたくなる。この曲を聴いたら、せつなさを振り切って思い切り泣いたり笑ったりしたくなるよ、岸田くん。
 
 ちなみに、彼が歌う小田さんの「恋は大騒ぎ」は切ない。高めのキーのまま一生懸命に歌うからかもしれないけれど、その表現には惹かれた。ひょうひょうとした京都人、その自己呈示は崩さないというイメージがちょっと一新された。(小田さん自身は、この曲を40歳を過ぎた頃にリリースしている筈だと思うけれど、ライブでは、もはや振り切った明るさが爆発で、客席にいる私もついついひょこひょこと垂直跳びだ。)

 ちなみ「ばら」繋がり。この撮影時のワンピースは、私には珍しい大きなローズのプリント。
 秋がはじまる頃、お気に入りのブティックで目に留まり、試着はしてみたものの大分オーバーサイズだった。さすがにショップの女性も残念そうに「雰囲気はお似合いかと・・・でも、9センチくらいは詰めないといけませんね」と、後押しはしてくれなかった。
 
 新年明けてからのバーゲンには何処にも行く気分にならず。もう何処もかしこもセールが終わってしまっただろう、ある休日、気分転換に春に着られそうな服を見にその店に再び立ち寄ってみた。すると、昨年、試着したローズワンピが一点だけ売れ残っていた。しかも半分の値段に下がっている。きっと縁があるんだと嬉しくなってお直しをする前提で手に入れてしまった。信頼しているリフォームショップに持っていくと、採寸して1万円もかかった。でも極力ラインを崩さずに2サイズほど小さくしてくれたらしい。
 
 それでも、主に胸周りがまだ若干ぷかっとして「安心ではない」のだが、ばら柄のこの服を、遠回りしてまた転んだりする私の弱さの鎧としよう。

 

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パープルがかった濃いブルー。 :: 2013/04/17(Wed)

 海が見えるカフェに行こうと思い立ちました。
 そこは、わざわざ特急列車に乗って駅からタクシーでほんの少し。わざわざ、そこまでしても出向くにふさわしい癒やしスペースでした。

 とにかくその海のように悠々と広い店内。このカフェの魅力はそれに尽きるでしょう。古いソファや椅子、テーブルが、十分過ぎるくらいの間隔で配置されています。お客さんたちも数組ほど。ここが、近所にあれば通うだろうなぁと思いましたね。
 帰りに、ちょっと久しぶりに海岸線を眺めました。平凡で穏やかでした。すでに夕刻迫り、空はオレンジ色。海岸線は深いグリーンに白い波が光っています。たぶん少し写真歴のある人ならば、ついカメラを構えてしまうのでしょう。どの海辺のまちにもある、ありふれた風景かもしれないけれど。きっと前も同じような気持ちに駆られて同じような写真を撮ったなぁという郷愁を存分に感じさせる海でした。

seaside1.jpg  ところで、その海をみる数日ほど前に、『瑠璃色の地球って、いい曲だね。会津の高校生たちが凛と謳っているのを聴いて感動したよ』ってメールが届きました。「あぁ、そうだそうだ、知ってるよ。私もコーラス部に居たときに歌った・・・」と言おうすると突然イントロが頭に浮かび、事実は、「歌った」のではなくて、「振った」のだと思い出しました。初めて自分が学生指揮デビューをした記念すべき曲です。当時、これが松田聖子が歌った曲だなんて知らず、知ったあともそれを聴く機会を持ちませんでした。
 私にとっての「瑠璃色の地球」は主旋律に加えてアルトやメゾパートを歌う仲間の声と、先輩が奏でていたピアノ伴奏のメロディと、種々の思い出も折り混ざった、全く独自のものだと分りました。一部の記憶は明らかに薄れつつも。だから、懐かしさ余りyoutubeで検索をかけて聞き直してみても、今なお歌い継がれるだけの名曲であることは確認して感動する一方で、当時のあの瞬間が(半分忘れかけていたくせに)たった一度のかけがえなきものだったと、何だかしみじみと思い至るのでした。

 もう少し調べると、この合唱曲の編曲が源田俊一郎氏だとわかり、少し驚きました。
 源田さんと言えば、自分が棒を振らせて貰ったなかでも最も印象深い日本の唱歌メドレーを編曲したひと。源田さんの編曲は、ポピュラー寄りの要素を加えながらお洒落で洗練されており、次から次に変わっていく曲間の伴奏にときめきました。
 歌っても楽しく棒を振っても心が踊り、最後には美しく圧倒的な感動が迫ってくる。正直言えば、当時、譜面を見ながら「聴いたことはあっても、半分も歌えない、歌詞を知らない」というのが私たち世代の現状でしたが。
 私は行きがかり上、高校では毎日、賛美歌を歌っていて、それが自分の心を澄ませるものとは知っていました。賛美歌はイエス・キリストを讃えていますが、唱歌は日本のふるきよき風景や四季の移り変わり、そこで暮らす普通のひとびと、家族や恩師、友たちへの愛を歌うものだったのですね。当時は若くてすごくポップな高揚による感涙が、今は時ふりつもった分だけ心を振るわせます。歳を取るのはいいことです(笑)
 
 
 ↓源田さん編曲の「ふるさと」からはじまる唱歌メドレー:長いですが、ぜひ、最後まで聴いてみてね。


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鏡を磨く。 :: 2013/04/17(Wed)

 これは、少し前の話なので読まれた方はどうかご心配なく。

 私が「くたばっていた」時に「休め」と診断書を書いてくれた主治医は、昔はスポーツをやっていたような大柄な身体つきで、割と豪快できっぱりとした話し方をする男性だ。こちらでつとめはじめて二年目くらいに一度目の危機があって以来、私は彼の患者である。
 基本的に普段は調子はどう?と聞いたあとは、軽い雑談をして、必要な薬をぱっと処方してくれる。私にとってはありがたく、面倒くさくない人だ。彼にとっての私は、「近頃の学生」だの「近頃の若い患者さんの傾向」だのを守秘義務に抵触しない程度にできる「ほとんど手がかからない方の患者」の一人だった筈だ。
 
 ところが、私自身が最もよろしくないときに、できれば主治医のいる病院には行かずに済ませたいと願いながらも薬だけは処方してほしくて這うように行ったのだ。呼ばれて椅子に座って一瞬。もう全てを悟られたことだろうと思う。普段、クールな印象すらある彼がすこしショックを受けたような悲しげな顔になった。が、職業上の苦笑いをつくりなおし、「まっ、あんまり無理せんとってくださいよ。」と言った。「まっ」のあとは吐息に聞こえなくもなかったが、とにかく短い面談だった。

 長く診てきた患者が悪化するとか、一向に良くならないなどは医師としては日常茶飯事の出来事だろう。帰り道、ふらふら歩きながら「あんな先生の顔、はじめて見たなぁ」と思った。ほとんど泣き笑いみたいに見えたくらいだ。
 
 あれから、しばらくして私は分った。あのとき、私があんな顔をしていたんだと。

====================================
 
 授業がはじまった。
 幸いにしてそのことは私の緊張感を高めるものではなかった。反対にマンネリを感じさせるものでもなかった。いつものように新年度を迎えた学生たちがそこには居て、私は必要な分だけねじを巻いた。肩に余分チカラは入っていなかった。だって、できることしかできぬのだ。
 
 「さて、どうして盛り上げようかな」と自然に考え及んでいた。昨年度の後期に私の別の講義を受講してくれていた数名の学生の顔に期待を感じ取った。休学を経て復帰した学生の顔には、「この人は信頼に値するか、自分はこれから上手くやれるか」という不安を感じ取った。最近増えてきた留学生たちには、ちょっと独特の授業方法への戸惑いも感じた。私は経験の限りに頭と心と体を使ってみた。場はやがて私の期待する温度に十分に温まってゆくのがわかった。

 それは一瞬のワクワク感にも似ていると言ってよいのではないか。当然、努力のいるワクワク感だ。得手不得手を別にすれば、私は画策することがどうやら好きだ。異質だけれど尊重できる、というよい空気を創り出す役割を担い、学びを通じて彼らをエンパワメンできれば幸福だ。
 
 講義を終えて教室を出て行く学生たちの砕けた顔をみたときに思った。彼れは私を照らす。そして試練もくれるが、挑戦をさせてくれる人たちだ。学生たちとの相互作用はちょっと面白い。時差もあるのだ。この話はまた。
サクラが咲いている時期はたいていまだまだ寒くて、薄着の上にはコートが欠かせない。

 

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葛藤のあとからはじめよう。 :: 2013/04/04(Thu)

 日常場面での対人関係における自己表現について。
 たとえば誰かに、お前の考え方や態度は間違えていると責められたとき、どんな風に自己表現できるだろう。

 対人関係の葛藤場面でのコミュニケーションには3つくらいパタンがあるとされていて、
 ①自分の考えを殺して、相手を尊重してみせる自己抑制型(ノンアサーティブ)
 ②ひたすら自分が正しいと一方的に言いつのる攻撃型(アグレッシブ)
 ③自分の気持ちも伝えるが相手の話も聞く自他尊重型(アサーティブ)
 
 ③がいわゆる最も望ましいとされるアサーティブなコミュニケーションの方法。
 かれこれ一昔前に職場で受けたセクハラ講習を会で、アサーティブコミュニケーションという言葉を知った。そのときの印象では「嫌なことははっきりと、正直に、さわやかに相手に伝えましょうね」という啓蒙に過ぎなかったにもかからず、案外、自分はそれが「できそう」な気がしていた。
 でもね、これは経験を積み、繰り返し「練習」しなければ、いざという時には実践できません。
 
 時と場合と相手との組み合わせでは、自分はどこまでもノンアサーティブで自己抑制的になることは、割と最近、自覚をする。また、相手によれば、もしかすると攻撃的になる可能性にも留意せねば、と思い知る。
 新しい年度から気持ちよく対話や議論ができるゼミ運営をするためにも、先日、講師を招きゼミ内で研究会を開いた。
 ここで、最も印象的だったことは「基本的人権」としてアサーションを考える視点だ。人と違ってよい権利、人と違っている気持ちを伝えてよい権利のほかに「ヒューマンエラーの権利」というものを新しく知る。

 「自分の不完全さと過ちをみとめる」権利
 「自分の負えるだけの方法で責任をとってよい」権利


 これらの権利は自分のみならず、言わずもがな他者にも認めるということが権利を行使しあう「人間的責任」になるということだろう。アサーションの考え方は一つの対人関係の作り方の方法であって、これを採り入れるかどうかも自分で決めてよい権利も提示されている。

 この研究会で面白かったのは、後半のロールプレーイングだ。
 「言いづらいが、言いたいことがある」役と「それを受け止める」役に分かれて言葉を重ねていく。その寸劇を見ている者たちで、あれこれと「この順番」「この言い方」「この態度」がより望ましいのではないか?と提案していく。そのなかで、自分らしさの範囲で採用できそうなものを加えながら何度か練習を繰り返すのだ。
 たとえば「アルバイト先の後輩がいつも間違えていることがあり、注意したくてたまらないが、なかなか言い出せない」学生が、二度、三度、それを伝えるための表現を修正しながら模索する。すると、最後には、びっくりするくらいに感じよく、しかもきっぱりと『伝える』が出来るようになったことに一同、ちょっと感激さえして、おおきな拍手。

 よかった点・改善されたポイント
 ①相手も自分も、ゆとりがある時と場所を選択していた。
 ②「さっき、○○のとき、あなたどうしていた?」→「○○しました」と共通認識をつくった事。
  いきなり間違っていた、とは言わなかったこと。
 ③相手が新人で、戸惑うことが多い立場を理解していることを伝えていた。
 ④困っているときには、どうしたらよいか助言をしていた。
 ⑤最終的に、言葉を濁さずに、○○の場合は~してほしいと、きっぱりと伝えられた。

 この研究会での発見というか、そうあってほしいと感じたことがある。アサーティブになれないのは「性格」が理由なのだと思われがちだけれど、多くの一般的な人にはアサーティブとはどうあることか「認識」を深めること、「練習」することで、結構な成果が見込めそうなことだ。
 
 個人的ふりかえり。
 器量以上に理知的であろうなどと、カッコつけるの、やめよ。
 劣等感に苛まれているときは、ノンアサーティブになりやすいこと。そんな風にならない方法は、別に表彰されるような職業的成果を出すことではなくて、日常のなかで淡々と日課をこなす程度の安定感だ。
 誰かにひどいこと言われたー!と思ったら、反証しようとかそのための弁明を上手くやろうと思わなくていい。「あぁ、今の言い方は、私は(→これ大事)とっても傷付きました」を真っ先に伝えてから、でもいい。場合によれば、話を切って逃げてもいい。逃げるのはいけないって刷り込まれているんだな。人のことはよく見えて色々示唆する癖に、自分のことになるとへっぴり腰な自分のこともヒューマンエラーとして認めてやれ。

 人同士が、何か互いに努力しても完全に分かり合えるとは思わない。でも、「分かり合おうとした」感覚とか、「一瞬でも、通じ合えたかも知れない」と思えることは感動的だし世界の希望だ。そのためならば、ありとあらゆる表現の探索があっていい。

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桜は必ず健気に咲く。 :: 2013/04/02(Tue)

 こちらに来てくださっている方々へ

 お久しぶりです。

 諸々あって、昨年末から、ちょっぴりくだばっておりました。
 主治医に「休め」と言って貰って、ようやく休暇を申請した次第。

 懇意にして頂いていたのに新年のご挨拶すらままならなかった方々、本当にごめんなさい、でした。
 
 こんな私ですが、また他愛のないことを綴っていこうかなと思いました。
 よろしくお願いします。

 
 自堕落に休んでいる間に観たのは深夜枠で人気があったらしい
 テレビドラマ「孤独のグルメ」。もうすっかり大ファンになった私。
 主人公を演じた重松さんってずっと殺し屋さんばかり演じている勝手な印象でしたが
 近年は「コワ・可愛い」キャラなんですね。

 ご飯を食べるそのライブ感、何より幸福そうな食べっぷり、
 その都度、心の内で思わず呟いちゃうおやじギャグ、
 大きな手で持つ綺麗なお箸の持ち方。
 
 眺めているだけで何故か口角があがってしまう。
 こんな風に癒やしてくれた重松さんは、年齢を重ねるほどによき仕事に恵まれ、
 脇役でこそ、観る者に何らかの味わい深い印象を与えられる
 演技幅も広い奇特な俳優さんのご様子。実に実に好感度・大なり。
 
 
 4ヶ月超えの撮影に、久々に臨みました。
 フォトショップで明るさを調整する方法さえ、何だか覚束ないくらいになっております。
 ブログ機能も何だかあちこち変わっていて、分らないことが増えました。
 が、頭がこれ以上退化しないように新しいこと、面倒なことは敢えてやりたいです。
 
 とか言いつつ、きっと必要以上はやらない私なのです。






 

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