風と君を待つだけ

~my ordinary days vol.3~




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ちょっぴり違うくらいでいいの。 :: 2009/05/25(Mon)

 とある公立中学が近年著しい志願者離れを食い止めるために、従来、「私服」を認めていたその学校で「制服」の導入を検討中だそうだ。たしかに目下、制服は若い女の子たちのファッションの一部のようだ。私服が認められている学校でも、わざわざ制服を着たり、休日に街をぶらぶらするにもお気に入りの制服を着る若者も多いらしい。「カワイイ制服」に憧れて入学を志願する生徒たちは多いらしく、志願者増を目指すならばその効果はかなり大きいとのこと。

 こうしたニュースはなかなか興味深い。ニホンジンの若者は結局のところ個性よりも「同調性」を目指す方向に回帰していると言ってしまうと、ちょっと紋切り型すぎるかもしれない。当人たちがどのくらい自覚しているのかは知らないけれど、制服のように皆が同じデザインのものを着るほうが案外、その着こなしには大いなる差異が生じるものではないか、と私は個人的に思う。ただ、彼女たちが差異化をはかりたいと考えるのは、自分という「個人」と隣に同じクラスにいる女友達という「個人」の間ではなく、ほとんどの場合「オトナ」との差別化であろうと。10代の白書のようなものを読むと、『オトナになんか、なりたくない。一生子供でいたい』と考える子たちが断然多い。
 制服の着用については、学校内の規定で、たてまえ上は、スカートの膝下は何センチ程度で短すぎてはいけないだの、無用な腕まくりはいけないだのと、あれこれ「決めごと」が作られるものだろう。しかし、彼女らは端からそうした規則などを律儀に守る気などなく、そこを「適度にすり抜けておしゃれする」ことが楽しくて仕方がないのだと思う。そうやって「こうしなさい」と大上段に「枠組み」を示してくれるからこそ、そこからの、ほんのちょっとの”逸脱”に自分のささやかな個性を感じられる。たとえ皆が同じ方法で、同じ程度の逸脱をしていても。だからこそ完全自由化、「どんな服を着てもいいよ」と言われたらきっと呆然としてしまうのだろう。多様なモノからたった一つなんて選べない。
 心の何処かで大きなものに枠づけられること、何かに所属していることを望み、見かけ上のスタイルとしては、そこから本気で脱却せずとも小さくレジスタンス。そのくらいのさじ加減を、たぶん、おそらく、想像するに「オシャレ」と呼ぶ。これが現在の制服大好き文化の基盤かと考える。

小雨が降っていた日。 昨年、私は戸籍上の性別と、主観的なジェンダー・アイデンティティが食い違っている学生と仲良くなる機会があった。彼らのような人々の存在を考えると、学校はお客さん確保のエサに制服導入うんぬんを考える以前に、男はズボン、女はスカートという二分法はもういい加減やめるべきなのだ。もっとも、かなり以前に、女子もズボンを履いてよいというシステムにしたけれど定着しなかったとの新聞記事を読んだけれど、それは、結局のところ周囲からの規範的認知を超えられなかったという現実ではなかろうか。
 制服とおしゃれについて書こうと思ったけれど、思わぬ方向に筆が走る月曜日の夜。

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